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フシギのほっぺた


 ノディオン城西の棟にある庭のとある木陰で、ラケシスはじっと「それ」を見ていた。
 「それ」と言うのは少し失礼かもしれないが、とにかく彼女は、じっとそれに見入っていた。
 時々そよりと吹く、秋を思わせる風が、ひらひらと、傍らに二三枚重ねてある書類の端をめくろうとする。それを、インク壷とペンのセットでおさえて、兄は我知らずと眠っている。
 今、この西の棟には、ラケシスしか住まっていない。しかし、国王である兄は、どこにも、誰の許可も必要とせず出入りできる。
 執務室や東の棟は、廷臣の出入りも多く、そういったものたちの出入りを禁止しているこの西の棟にいるときは、よほどに疲れているということも、ラケシスは知っている。食えない廷臣たちは、まだ若い王の実力を測りかねているのか、時々執務室にいると激論になることもある。
 その兄エルトが、すう、と深く息を吸ったかと思うと、ぱち、と目を開けた。おき火の中に舞い込んだ木の葉がすぐ燃えるような、そんなすばやさだった。本物の瞳の色の上に、今は木の葉の影のちらつきを移しながら、視界に入ったのだろう、くい、と、瞳だけ動かしてラケシスを見る。そして
「!」
不意をとられた、といわんばかりの勢いでがば、と起き上がった。その拍子に、ラケシスのひたいに、ぽこん、と兄の顔があたる。
「あ」
よろめいて後ろ手に手をついたラケシスを見て、兄はわずかに目を見張った顔をする。
「ああ、すまん。頭をぶつけてしまった。ケガはないか」
「は、はい。ちょっと、びっくりしましたけど」
「誰が来たのかと思った。ここは俺とお前しか入れないものを」
「あまり気持ちよさそうなので、起こしたくなかったの」
「そうか、気を使わせたな」
兄は傍らの荷物たちを一抱えに持ち、
「さて、また食えない家臣達との話し合いだ」
苦笑いをした。ラケシスは、
「私も、お話を伺っていていいですか?」
一応、そう伺いを立ててみる。兄がノディオンを空ける間、心配を少しでも減らしたいと、家臣の話を聞くことで内政の勉強をするつもりであった。しかし兄はしばらく考えてから、
「いや、今日は来ないほうがいいだろう」
と言った。
「話がだいぶこじれていて…お前がきたらいい話のタネにされるかもしれん」
「?」
「お前が来たのをこれ幸いと、縁談の話にすり替えられてはは、俺も困る。お前もそんな話はいやだろう」
せめて手紙の上だけでも、と、交際を求める書状が後を絶たず、ラケシスはそれをすべて、あけずに処分をさせている。それなのに、家臣は何とかとツテをつくっては持ってくる。自分が行ってそういう話になるなら、
「じゃあ、私は行きません」
「ああ、そのほうがいいだろう。
兄は、すっくりと立ち上がって、わずかに空を仰いだ。
「秋の色だな」

 兄がまた執務室に戻ってゆくのを見ながら、ラケシスはさっきぶつかった額に、不思議な感触が残っているのを感じていた。
 髪の毛にしては硬いものが何本も、刺さるような感覚だった。自分の額をすりすりとしながら、
「いったい、アレはなんだったのかしら」

 こういう場合、兄についての話は、ばあやや廷臣に聞くより、グラーニェに聞いたほうがわかることがある、と、最近ラケシスは覚えた。なんとなれば、三つ子にも見せないプライバシーの部分も、グラーニェは見ているからである。
 とまれ、東の棟にある王妃の部屋で、一人刺繍をしていたグラーニェに、さっきの一部始終を話す。グラーニェは少し考えて、
「そういえば、この二三日は、ご自分のお部屋にも戻られずに、執務室でごく短いお休みをとられているだけだとか」
と呟く。それとこれの因果関係がわからず、ラケシスが首をかしげると、グラーニェはそのしぐさを可愛らしいものを見るような目で笑んで、
「このごろはきちんと身だしなみを整えられているヒマもございませんでしょうから、自然とたまってしまったおひげが、偶然ラケシス様とぶつかられたときにあたったのでしょう」
冷静に説明した。
「…あのままにしたら、お兄様のおひげはどうなってしまうの?」
ラケシスの問いに、またグラーニェは考えて、
「もしかしたら、魔法使いのおじいさんのようになってしまわれるかもしれません」
くすくす、と、笑いながら言った。ラケシスはいよいよ頭の中がどうにもならなくなってくる。魔法使いのおじいさんといえば、長いひげにとんがり帽子。そのひげはともすれば足に届くほど長く、物語の挿絵には描かれている。そのひげが、物語の騎士様のようなりんとした面差しの兄のあごについているという、その図がたまらない不響和音を上げる。
 眉根を寄せた顔になったままのラケシスを、グラーニェはあまりにおかしかったのかくすくすと笑い、
「それは冗談にしても」
と、彼女の頭を何とか軌道修正しようとする。
「廷臣の中におられるあの方かの方…」
そう、手入れされたひげを自慢の一つにしている廷臣の名前を二三あげ、
「そう言う方のようにおひげを綺麗にそろえられるのは、陛下が一気に年をとられてしまうようで、私気が進みませんわ」
「私も」
まだ、悠然としたひげを蓄えるには、まだ国王は若すぎる。
「お兄様には、まだ魔法使いのおじいさんみたいになってもらいたくないです」
ラケシスは、ひとまず理解したことを言った。
「お姉様、お兄様、今日はここに帰ってくるんですよね」
「ええ、おそらく…」
「そうしたら、お顔のお手入れはちゃんとしてって言ってください、私はすべすべのほっぺたが好きですって」
ラケシスが、自分の手を握り締めて、まるでこいねがうように言うのを、グラーニェははた、と目をしばたたかせて、そのあと、
「はい、申し上げておきますね」
そう言った。

 その後ラケシスが学んだのは、
「ひげは伸びて二三日たったものより、剃った翌日ぐらいの短いもののほうが、余計肌に悪い」
ということである。
 まさか数年たって、あの痛さをもう一度味わうとは。片頬を押さえながら、気晴らしに剣でも振ろうか、そんなことを思いながら歩いていると
「あ」
「おや」
折り良くというか、折悪しくと言うか、ベオウルフに出くわした。彼は、ラケシスの片手の行く先を見て、
「姫さんどうした。歯でも痛むのか」
と尋ねる。ラケシスはわずかに首を振って、
「ちがうの、それが」
と、今朝あったことをあらかた説明した。
 いつもより早く目を覚ましてしまったこと。そしたらまだ隣にいつもの男が眠っていて、頬に、軽く唇の一つでも寄せたらさぞ驚くだろうという悪戯心がもたげたこと。実行しようとしたら、男が寝返りを打って、図らずも頬同士がすりあう状態になって、その感触の異様さに悲鳴を上げて、いつもなら穏やかな朝を自分からぶっ壊しにしたこと。
 話を終える頃には、ベオウルフの肩は、いかにも笑いをこらえるようにカタカタと震えている。
「おかしいこと、少しもないじゃない。何なのよ、一体あのじょりじょりは」
ぷすん、と中っ腹に言うラケシスに、笑いを何とかこらえてベオウルフは、
「そりゃ少年だって、いっぱしの野郎なんだから、一晩もあれば剃るほど伸びるさ」
と言う。ラケシスはきょとん、として、
「ちょっとまって、あの人、私とほとんど年違わないのよ、それなのに?
 お兄様は立派な大人だったから、わかるけど」
「何歳から大人なんて、はっきりした線なんか引けるもんじゃないよ」
また頭の中がどうしようもない状態になっているラケシスを見て、ベオウルフは淡々と、自分は二三日放っておいても一向に気に介さない無精ひげをなでる。
「男はそう言う生き物だって、割り切るんだな。女の子だって、何歳からオトナですって、線引きできるもんじゃないだろ」
「それは、そうだけど」
「まあ、長く付き合いたかったら、気にするなってことだな」
ベオウルフは軽くそうまとめて、それからやっとラケシスの手に剣がにぎられているのを見て、剣の練習に誘った。

 ラケシスは、それから、また「それ」をじっと見入っている。相変わらず「それ」扱いは失礼ではあるのだが、さしもの鈍感も、ぷちぷちぷちぷちと刺さるような視線が気になってきたのか、
「…王女、私の顔がどうかしましたか」
フィンが当惑し切った顔で言った。ラケシスがその頬を指でする、とひと撫でして、
「もう、ぷちぷちしてる」
と言う。
「いつ伸びてるの、そのひげは?」
 私いやよ、朝からあんなふうにじょりじょりってされるのは」
そのことですか。と、フィンは目でげんなりとする。耳元で叫ばれて、跳ね起きて、ついで隣から聞こえてきたのが
「いたいのよ、そのじょりじょりしたの、なんとかしてよ!」
である。流石に説明をされて反省したのか、じきに謝りに来たが。
「今までは、先に部屋に戻るなりして処理をしていたので、お気づきにならなかっただけですよ」
「やっぱり、そうなんだ」
「なにが、ですか」
「あなたも、そのうち放っておいたら、魔法使いのおじいさんみたくなっちゃうんでしょ?
 私それはいやよ」
「…すぐにはなりませんよ」
フィンの顔は当惑したままだ。
「それこそ、何十年とかかります」

 ひげのことは一度ここで終わる。だが、ラケシスにとって、フィンのプライベートで見せる姿は、あるいはグラーニェから聞いたものと全く同じであったり、少し違うところもあったりだが、とにかく、話だけにしか聞かなったことを間近で見ることが出来るまたとない機会の連続でもある。
 聞くだけではつい眉をひそめそうになることも、今は冷静に見聞きできるのは、グラーニェには兄だから許せることが、ラケシスに関してはフィンだから許せることとなっているからかも知れない。
 勿論、話のなかには、
「これは、あなたがお嫁に行けばわかりますわ」
で濁されたこともある。その中で最たるものは、アレスはいつグラーニェの中に入ってきて、どうやって出て来たか、と言う質問であったか。それ以外の返答を濁された質問は、もしかしたら、今までの具体的な体験をもって回答にかえられてることもあるかもしれない。
 母は、グラーニェと違って、父のことをほとんど全く話さなかった。いうなれば娘ほどに年の離れた愛妾で、寝台の中以外の夫婦らしい生活などほとんどなかったのだから、話題がなかったのだろうと思えばそれまでだが。
 閑話休題。
「私達も、時折姫様がおさびしそうなので、せめてお目覚めまではと申し上げることもあるのですが」
と、メイド長のマリーが言った。
「見苦しいなりだと仰って、何より、このことがみだりに人にわかるような振る舞いはご迷惑になろうと」
そう言って、フィンは朝早くに帰ってしまうそうなのだ。ラケシスの頭のなかで、ぷすん、と、何かが噴き上がる音がした。
「…水臭い」
「そう仰って差し上げないでください」
マリーも、ラケシスの気持ちはわかるのか、少し苦笑いをする。
「騎士様なりのご配慮と思って…」
「知らない知らない」
マリーの宥めをぶんぶんとかぶりをふって跳ね除けて、まるで駄々をこねるように
「後ろめたいことなんか、全然してないのにぃぃぃ」
ラケシスは最後、ぃぃぃぃぃぃぃぃっとこじれたような声を上げた。

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