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 その手紙の返事をラケシスに一任したら、宛名をざっと確認したあとは、問答無用で暖炉行きだったそうだ。
 それでも挑戦者は引きもきらない。どこから漏れ聞いたか、誕生日に宝飾品を送ってくるもの、季節季節の花を贈ってくるもの、などなど。
 モノは丁寧に送り返し、手紙は読まずに暖炉行き。グラーニェは何故そこまで意固地になるのかわからないといい、エルトシャンは本人が思い立つまでほっとけといい、ラケシス本人はお兄様のような方じゃなきゃ嫌という。エリオットの入る隙間など、正直なかった。

 その繰り返しで、次々と落伍者が出る中、いまだ彼女に対して情熱を燃やし続けられているエリオットは、我ながら辛抱強いものだと、自分で自分を褒めていた。手紙に返事がないのはただ恋文に慣れていないだけで、舞踏会に来ないのも、本当にエルトシャンの言うとおりなのに違いない。
 見あげたポジティブシンキングである。そうした苦労のすえに手に入れた葡萄が、本当に酸っぱかったら、彼は一体どうするつもりなのだろう?

 ある日の午後、珍しくエリオットが机に向かっていた。従者にあれじゃないこれじゃない、本棚に向けて指示を出し、持ってきた本を開いては閉じ、開いては閉じをし、彼の琴線に響いた言葉は、机の便箋に書き付けているようだ。
 彼の本棚のタナのひとつは、すべて手紙の文例集で占められていた。ただの手紙ではない。恋文の文例集である。
 社交儀礼で送る、ちょっと女性の心をくすぐるような手紙なら、祐筆(代理人)に書かせれば、字も美しく、また紙やその他趣向も凝らしたものが送られてゆくのだが、そんなことをさせず、一人で文例集をひっくり返しながら自筆に挑んでいるのは…ほかならぬ、あて先がラケシスだからである。
 文例集からつぎはぎをしているのだから、もちろん、一文一文のフレーズに、微妙な齟齬を生み出しているのは否めない。最初は春の気候の挨拶になっているのに、最後が
<いよいよ秋めいてまいりました、貴女もこのごろの冷たい風でお体の調子をくずされぬよう…>
なんてことになっていたりするのだが、エリオットは、何より自分が書いたことに意義を見出している。
 いそいそと封ろうをし、従者に届けさせる。従者は、
「たぶんこの手紙も、読まれずに暖炉行きなのだろうなぁ」
と思いながら、それでも、主命には逆らえなかった。

 ラケシスに恋文とは、ナシのつぶてとほとんど同じ意味である。それでも何通でも届く手紙に、グラーニェはさすがにはぁ、とため息をついて
「これほど熱心なお方なのに、どうして陛下はこの方だけは絶対にいけないとおっしゃるのでしょうねぇ」
と言う。本当の理由を知ったら、たぶん彼女は卒倒するだろう。ラケシスは、
「お姉様、どうぞ、その手紙をご覧くださいましな」
という。
「あら、あなた宛の手紙だというのに、読んでもいいのですか」
「はい、かまいません」
余りにラケシスが淡白な態度をとるので、グラーニェはその封を開けた。
 沈黙しばし。グラーニェは
「…ご熱心なところは、よく承りました」
と、それだけしか言わなかった。夫がエリオットを薦めたがらない理由が、少し分かるような気がした。
 手紙はサロンの貴婦人たちにも読みまわされて、中には笑いをこらえかねて部屋の外に飛び出した婦人もいる。
 最後に、ラケシスがその手紙を見て、何か思いついたように
「この手紙には、お返事を差し上げようかしら」
といった。グラーニェはもちろん、貴婦人がたは、ぎょっとした顔でラケシスを見る。
 いかにも文例集をつぎはぎに写しました、という、そしてその字もお世辞にも端麗には見えない、便箋に落ちたインクの染みも気にしない手紙に、返事を返そうというのだ。ラケシスはメイドを呼び、
「私が一番好きな香りをつけた便箋と、ナイフ、それから糊と、封の一式を」
といい、そのあとはにっこりと笑いさえして、それまでサロンでされていた話に混ざる。グラーニェは、義妹の指示したものの中に、ペンとインクがなかったのを不思議に思ったが、言わなかった。

 やがて、必要なものが全部持ってこられて、前に机を引き出し並べられたラケシスは、こそこそと何かを始める。
 やがて作業が終えられた、香りのつけられた便箋一式に、封ろうで封がされ、着婦人方の見ている前で、手紙はエリオットへと送り返されたのだった。

 驚いたのは、従者ももちろん、エリオットのほうも、である。
 ナシのつぶてから思いがけず返事が届く。しかも、封筒から立ち上ってくるのは、えもいわれぬ香り。まるで本人がそこにいるようだ。
「お前ら、なにを見ている、一人にしろ!」
従者たちを全部部屋から追い出し、エリオットは恐る恐る封筒を開ける。中の便箋を取り、開く手が震える。
「…ん?」
しかし、便箋には、何も書かれていない。
「何か仕掛けでもあるのか?」
便箋をあちこちから眺め回して、もう一度、便箋の表に帰る。そしてやっと、無地だと思っていた便箋に、何かがついているのを見た。
「こ、これは…」
それは、手紙の切れ端で、エリオットの字で<あなたの手紙を読みました>とある。エリオットは、自分の机に戻って、文例集をまたひっくり返し始めた。
「ええと、あれじゃない、これじゃない」
探し回ることしばし、
「あった!」
と彼が見つけたページには、
<長くお返事がないので、もしや私にはもう望みがないのかと、悲嘆にくれてしまっています。もしかしたら、このまま死んでしまうかもしれません、もし、こんな私を哀れに思し召しなら、せめて、「あなたの手紙を読みました」の一文だけでも、お返事としていただけないでしょうか…>
とある。
「やった!」
エリオットは躍り上がる。
「こんな思わせぶりな返事などよこしやがって、意外と根はまだまだ子供しいものだ」
その手紙が、エリオットの宝物(…それ以上、この手紙を形容することははばかられる)になったのは、言うまでもない。

 「エリオットに手紙を出しただとう?」
エルトシャンが裏返った声を上げた。グラーニェはそれに「はい」と頷いて、
「ですが、ペンもインクも使わずに、いただいたお手紙から何か細工をしてお出ししたようですわ」
という。
「昔あんな目に遭わされたのに、手紙だと…?」
と、エルトシャンは自分の口をふさぐように顔を手に当てて、しばらく考えていたが、急に、
「ぐっくっくっくっくっ」
と爆笑をかみ殺す声になる。
「陛下?」
突然の夫の奇行にきょとん、としたグラーニェに、エルトシャンは蔵書の中からさっと一冊とりだして、ぺらぺらとページをめくり、見やすいように、彼女の前に開いてくれる。
「簡単に言えばだ、手紙の返事もそうそうくれないようなつれない女に焦がれた男が、『せめて手紙を読んだとだけでも教えてくれ』と手紙を書いた。女はその手紙の中で、『手紙を読んだ』という部分だけを便箋に貼り付けて返した。
 男はそう言う機転の利く女にますます焦がれて、そのまま焦がれ死んだ、という話があるのだな」
「まあ、そういえばラケシス様、これと同じようなことをされていたかも知れませんわ」
「ラケシスがこの話を知っていたかどうかは分からんが、これでまたエリオットの奴、今頃自分の部屋で七転八倒しているだろう」
最後に、どうしてもそうせねばいられなかったのだろう、エルトシャンはははははははははは、と声の続く限りの大笑いをした。

 それが、アグストリアにあった、凪の最後の時間であった。
 ヴェルダン王国に動きがあり、アグストリア⇔グランベル間をつなぐ重要な拠点であるエバンス城をグランベル王国が接収した。
 これが、アグストリア宮廷に影を落とさないはずがない。もしやそのエバンスの次は位置からしてノディオンか。そんな心配をされているのも知らぬ顔で、エルトシャンはヴェルダンとの国境の警備を強化する。
 そこまでは、自国の防衛を強化するという意味で、どの国でもとるだろう方法であったから、むしろそれ以上のことをしないエルトシャンを、イムカ王は評価していた。
 「しかし、急ごしらえの軍勢で、出撃時にはわずかな守備部隊だけで空同然になるというぞ」
と、ハイラインに戻っていたボルドーが言う。
「エバンスの軍勢が、理由はどうあれ南下し、空になったところを襲撃し接収すれば、アグストリアとグランベルは地続きになり、また上手くいけば、グランベルが友好国であったヴェルダンに何故侵攻したか問いただす機会になる。
 手っ取り早く言えば、アグストリアが、グランベルに対して有利になれる」
「なるほど」
「エリオットよ」
「はい」
「やってみるか。ノディオンの国境警備のスキをつき、エバンスを接収するのだ。
 上手くいけば、褒章は思うままだぞ」
エリオットの頭の中で、褒章、という言葉と、ラケシスとの結婚話、という言葉が一致を見た。
「やりましょう父上、いや、私にお任せください!」

 困ったのは将校たちである。ノディオンの軍勢は、一兵卒からして見事に鍛え上げられており、精鋭騎士団のクロスナイツは、ミストルティン、ひいてはアグストリアの守護部隊として、大陸各国も一目置く部隊なのだ。
 そのノディオンを経由して国境に? 無茶だ。将校の意見は一致した。
 しかし、エリオットは一度やると言い出したら聞かない男である。こと、エルトシャンに一泡吹かせようとする執念には、別の意味で脱帽である。
 用意された騎士団を率いて、エリオットは意気揚々と出陣して言った。

 結果は、いうまでもない。
 軍勢を早くに察知した国境警備隊は、すぐにこのことを本城に連絡し、エバンスまで指呼の間であったエリオットの部隊は、クロスナイツに追撃され、あっという間に壊滅した。
 からがら帰還したエリオットの報告に、ボルドーは
「ノディオンの真意読めたり!」
とばかりに、アグスティに飛び、ことの事態を報告する。
 ともすればアグストリア侵攻の拠点にもなりうるエバンスを守ったのは、ノディオンに謀反の志ありと解釈すべきであると一演説をぶち、すでにアグスティの全権を任されていた王子シャガールは、全面的にその肩を持った。
 エルトシャンは、それがすべて、自分のいない場所で行われ、さらに、自分の意見がまったくイムカ王からシャガールに届いていないことに、動揺と苛立ちを隠せない。
そして、反駁の機会も与えられないまま、シャガールはノディオン粛清を決定し、ノディオンの真意を真っ先に読んだという功績で、先人を負かされることになる。
「それもこれも、シャガール陛下のおもんぱかりあればこそ。
 エリオット、失敗は許されぬ。ヘマをしたら、生きたままこの城には帰れないと思え」
の檄を父から飛ばされ、エリオットは再び、今度はノディオンに向かって出兵した。

 エルトシャンはいままで一目置かされていたシャガールの意趣返しとばかりに、クロスナイツごとアグスティに幽閉されているという。ラケシスがけなげにも残った軍を率い、残った部隊を指揮しているそうではないか。
「ラケシスに罪はない。しかし、不肖の兄を持った不運は、実感してもらわねばな」
馬上でエリオットはにひひひひ、とやに下がった笑いをした。彼の頭の中では、接収したノディオン城で、ラケシスを組み敷く自分が描かれている。
 彼女を見たのは数年も前だ、あの頃よりは、中身はともかく、体もほどよくぴちぴちぷりぷりになっていよう。そんな彼女の「最初の男」になれるとは、ソレこそ天の配剤である。
 エリオットは、もうすでにノディオンを接収したつもりでいた。
 それより早く、彼女が、ほかならぬエバンスに救援要請を出したとは知らずに。

 この攻防の結果も、また述べるまでもない。
 この攻防で、エリオットは捕縛され、ラケシスの姿を見るところか、そのままハイラインへと返される。しかし、ノディオン接収を失敗したエリオットに対して、城門は開かなかった。

 エリオットは、ついてきた従者数人と一緒に、浪々と大地を歩いている。身のままで返されたエリオットには、財産と呼べるものはほとんどなく、彼は聖地を巡る名目で施しを受けて旅する「巡礼者」となっていた。
 届かない棚の葡萄はまだ酸っぱいのだろうか、それともやはりもう甘いのを出し惜しみされていたのか。エリオットには判然としない。シレジアは寒い。凍え死にそうな中、ほかの巡礼者と身を寄せ合う間も、エリオットは、結局食べられずじまいの葡萄を、いつまでも惜しんでいた。
 そんなエリオットに光が差したのは、旅なれた巡礼者から、シレジアの冬もじき終わるといわれたころのこと。果たして、自分は見出され、おだてられるままにラケシスと、思いがけない再会をする。しかしラケシスは、もう、自分の手には届かなかった。
 棚にあるまま完熟し、さらにエリオットが目を離していた間、自ら甘くなろうと努力した葡萄は、大陸のどの王侯貴族にも得がたい極上のワインに醸されていた。
 自分を心底から味わってくれる、たった一人の男のために。

 「あの葡萄はやっぱり酸っぱかったんだ」
エリオットは、シレジア城の賓客室のひとつで、港の氷が解けるのを待っている。船が出入りできる季節が訪れれば、マディノにこのごろできた自由都市から、アグストリアに入れると聞いたからだ。
「酸っぱい葡萄は、いくら醸したところでろくなワインにならん。
 だったら、酸っぱいうちにもいでしまえばよかった。甘くして食べる方法など、いくらでもあったろうに」
そんな呟きを、従者は
「はいはい」
の一言で聞き流していた。

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