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葡萄甘いか酸っぱいか


「あの葡萄は酸っぱい」という逸話がある。
 自分の力ではどうにも届かない葡萄の房を見て、狐が「あの葡萄は食べたってきっと酸っぱい」と言い捨てるという、ある意味往生際の悪い逸話である。
 本当にその葡萄は酸っぱいのか、実は甘いんじゃないか。そう思って葡萄の下から動かない一匹の狐、じゃない、一人の男がいた。
 誰あろう、エリオットである。

 「どうであろうか、エルトシャン殿、先ごろ生まれられた王子に聖痕が確認されたとか…
 妹姫のことなど、そろそろ考えられては」
アグスティの城で、エルトシャンの後先になって腰を折るハイライン王ボルドーの姿があった。
「妹はまだ、世の酸い甘いも分からぬ子供、その話はまたあとに願いたいものだが」
自分の父親といってもいいほどの年のボルドーに向かって、エルトシャンは淡々とそう言う。
「顔をあげられよ、ボルドー殿、王らしくない振る舞いをみなが見ている」
「う、うむ」
ボルドーは顔を上げた。
「しかし、息子があきらめろと言ってもあきらめんのだ、あの姫でなければと言い張って、やっと来た縁談をまた振り切って…」
「エリオット王子はまた若い、またよい話もあるでしょう」
肩を落としたボルドーを、さすがに無碍にもできず、エルトシャンは苦笑いをして、城を辞去するほうに歩いていった。
 誰にも見えないところで
「誰が、あのバカ王子に妹をやれるか」
と、忌々しそうに食いしばった歯の間からそう言葉を吐きながら。

 エリオットをバカ王子呼ばわりしているのは、彼だけではない。
 アグストリア貴族の間では押しなべて、エリオットと言えばバカ王子なのだ。
 それを一番よく知っているのが、エルトシャンだともいえた。
 なにぶん、自分がいた士官学校期間の半分は、彼と一緒だった。
 シグルドの座学も大概だと思ったが、エリオットの前では彼も賢者に見える。
 専攻武器として槍を選択したらしいが、下級生の教練として指導したキュアンは、
「ありゃなんだ、なんかの大道芸か」
と言ったとかどうとか。
 挙句には、ボルドーが大金を積んで、飛び級扱いで卒業し、形だけはデュークナイトだという。
「あれほど意味のない徽章もあるまい」
エルトシャンは、帰りの馬の上でぼそぼそ、と呟く。
 おまけに、だ。ラケシスがノディオンへの単独行を決めたとき、理由をつけてハイラインに連れ込んで、既成事実を作りかけた経緯がある。それがラケシスの中で、エリオットへの相当なマイナス評価になっていることは、火を見るより明らかだ。
 だから、ラケシスをアグスティに行かせるわけにはいかないのだ。彼女の言葉は抜き身の剣のように取り扱いが難しい。ボルドーが直談判に及んだとして、ラケシスが
「あんな最っ低王子と結婚ですって!?」
と言おうものなら、事態はただの王同士の密談では終わらなく、最悪、ハイラインとノディオンの外交戦になるのだ。
 世間では、妹をかわいがりすぎてアグスティの社交界に出さないのだといううわさがある。出したくない気持ちも当然ある。しかしそれ以上に、「出せない」のだ。
「母と娘でアレだけ性格がよく違うものだ…」
自分の初恋のひとであり、また妹の母であったあの面影を思い出しながら、エルトシャンの足取りは、なんとなく重い。

 ハイラインからアグスティは、以外に距離がある。だから、ボルドーは、一度アグスティにあがると長逗留になる。
 その間、ハイライン城は、エリオットが名目として管理しているすることになるが…
 ハイライン城につめている兵士も官吏も、ほぼ全員間違いなく、彼に為政者としての素質がないことを見抜いていた。おそらく、昨日入った新人が、今日エリオットに目どおりをしても、この王子に何かを期待しても無理だ、と思うだろう。
 他人がそう、冷静に見ているのに、エリオット本人は、士官学校を立派に卒業して、城代もしっかり勤められるデュークナイトだと信じているのだから、手に負えないのだ。

 汗を流すことは、悪いことではない。
 エリオットも、それを分かっている。だから、ほぼ毎日のように槍を持ち出しては、軍の将校相手に修練をする。
 運が悪いのは、その日相手に選ばれた将校の方だ。何の運が悪いのかというと、なんでもない、エリオットに負けねばならないからである。
 士官学校時代のキュアンをして「大道芸」と言わしめたエリオットの槍の腕前は、将校はもちろん、兵士が見ても「あー…」と言葉を失うものだ。
「なあ」
「うん」
兵士たちが、エリオットと将校の幇間稽古をみながらささやきあう。
「エリオット様はたしか、デュークナイトでいらしたよな」
「たしかそのはずだ」
「そのワリにはなんだ、こう…凄みがないな」
「この城じゃそれは禁句だ」
兵士たちのほうが災難といえた。二、三、将校たちとの幇間稽古を終えた後は、
「よし、ではデュークナイトの俺自ら、お前たちの槍を見てやることにしよう」
と、絶対なるからである。

 しかもこの日、エリオットはかなり調子に乗っていた。
「ジョストの準備をせよ!」
という命令があり、将校たちがあわてだす。
 ジョスト…騎士槍試合(トーナメント)の花形である、騎士と騎士の一騎討ちのことである。
 毎年、アグスティで行われるそのトーナメントで一旗上げられれば、各王家、ひいてはアグスティでそれなりに取り立てられる可能性があると知って、アグストリア国内はもちろん、見聞を広める途中の若い騎士たちも集まり、賑々しく行われていた。
「今年こそは、エルトシャンをジョストで破る!」
エリオットが準備をされながらそう気炎を吐くのを見て、「それは無理でしょう」と突っ込めるものは誰もいなかった。突っ込んだら最後、エリオットはやれ自尊心を傷つけたとかどうとかで、将校であっても営倉にぶちこむ(懲罰を食らう)のだ。
 アグストリアを守護する神器の保持者が槍にまったく疎いという保証などない。むしろ、彼の交遊録を見れば、槍に心得のないほうがおかしいほどだ。
『武器は使われるものではない、使うものだ』誰のセリフか知らないが、けだし名言である。
 とまれ、ジョストの練習一式が用意され、エリオットも防護の準備を終え、定位置につく。ジョスト用の練習人形が彼の前にずらりと並べられた。
 人形には盾のようなものが取り付けられており、その盾を突くことで、ジョストに必要な技術やカンを覚えるのが、もっぱらの目的だ。
「行くぞ!」
の掛け声も勇ましく、エリオットが馬を走らせる。右手に構えたランスが、がつっ、がつっと人形の盾にあたり、その力をいなすようにくるーりくるーりと人形が回る向こうで、エリオットの馬はとまる。
「お見事です、王子」
将校達がやんやの声を上げる。そうしないとエリオットの機嫌に響くのだ。
「そうだろうそうだろう? 伊達に士官学校を出てはいないぞ」
エリオットが馬上でふん、と踏ん反りかえった、その直後。
 人形の回転を制御する重りが、エリオットの後頭部から背中にかけてばこっとあたり、王子はあえなく落馬する。
「う?ん」
「王子、大事はござりませんか」
「医者を呼べ、医者を」
「誰だ、王子の練習台に物々しい仕掛けをした奴は!」
将校たちは「一応」慌てふためくが、この重りがないと、ジョスト用の練習人形はランスを盾に当てた途端がらがらがらっと回って、もっと悲惨なことになるのだ。
 今年も、エリオットの野望は達成できそうになさそうだ。

 アグストリアにある各「王家」は、偉大なる領袖であるイムカ王を頂点に、「まだ」それぞれ平穏を保っていた。彼の内政のもと、アグスティの城下町はとても安定していたし、またイムカ王の人徳は他の王家を動かし、領民を搾取するような動きが少しでもあれば、たちまち彼の雷が落ちる、と、そういう事情になっていた。
 そのイムカ王の主催で、舞踏会が行われていた。
 といっても、エリオットは広まっている噂が噂だけに、誰の相手もできず、女性で言えば「壁の花」のようにぺっとりとへたり込んで、王宮の使用人が持ってくるワインを、取りは飲み取りは飲みを繰り返しているだけだ。
 その様子をまったく知る様子もなく、舞踏会の中心は、やっぱりエルトシャン、だ。
 しかも、イムカ王の主催とあって、アレスを出産し、体の落ち着いた王妃グラーニェを連れてきている。グラーニェも、嫁入り前に相当鍛えられたクチなのだろう、緩急ある曲に対して、夫との足並みはまったく乱れない。良家の子女たちは、その琴瑟相和するステップに、うっとりとするばかりだ。
 エリオットは、ソレも面白くないが、もっと面白くないことがあった。この場所にはラケシスがいない。
 記憶が間違いなければ、彼女もこの舞踏会に参加して、まったくおかしくない年頃のはずなのだが、彼は頑として妹をアグスティについてこようともしない。それを指摘されても、エルトシャンは
「妹はまだ子供で、一曲も満足に踊れない不調法者、もう少し、作法など習わせてから」
やんわりと、しかしけんもほろろに断ってくるのだ。もし、ラケシスをつけてくるよう言い出したのがエリオットだったら、
「お前とアレとをひとつ場所においておけるか」
といわれるのだろうが。
 さまざまな用で、ノディオンに立ち寄る他王家のものや官吏もいないわけではない。その口から、ラケシスの天賦の美貌の話はアグストリア中を席巻しているというのに、いまだにこの妹バカはノディオンに置いたままなのか。
 エリオットはそう思いながら、同時に、少しばかりの優越感にひたってもいた。まだその、アグストリアにその美しさが広まる前のラケシスを見た、ノディオン王家以外の人間としては少数派だという、その優越である。
 あの頃はまだ本当に子供しい彼女だったが、嫁入り・婚約の適齢期ともなれば、またその頃とは違った味もあろう。おまけにハイラインとノディオンは成り行き上隣国だ、それが何より、エリオットに与えられたアドバンテージであった。

 そろそろ適齢期というラケシスの噂を聞きつけて、
「ん?」
グラーニェの手には手紙の束が握られている。エルトシャンがそれを見咎めた。
「何だそれは」
「是非ラケシス様にお渡しくださいと、頼まれたものですわ」
グラーニェはほんやりと言った。
「あの方も、もうこういうものをいただくお年頃になりましたのね」
自分の妹のようにその成長を喜ぶグラーニェから少し視線をそらし、
『誰だかわからんが、命知らずなことをするものだなおい』
エルトシャンはそう呟いた。アグストリアの母語であるので、仮に聞こえていたといても、グラーニェにその内容が伝わっているわけではない。
「ラケシス様は、陛下のような方がいらっしゃるようなら、そう言う方のところに行きたいと、そう仰ってましたわ」
という、いつかの妻のセリフを思い出す。言ってくれるのは嬉しいが、ただ可愛いからで彼女の夫にはなれないというのを、また十分に知っているのも、エルトシャンであった。
「お兄様のためになりますから」
と内政を学んで、三つ子の騎士相手に剣術を学び、「お兄様のような方でなければ」と言い切ってしまう、あの歯に衣着せない竹を割ったような性格。それを全部ひっくるめてそれでも彼女を、というそんな奇特な男、いたらお目にかかりたいほどである。
 グラーニェは、そんな夫の心境を知ってか知らずか手紙を眺めまわし、
「あら、ハイラインのエリオット王子からもいただきましたのね。
 水臭いこと、あんなところでお渡しにならなくても、直接ノディオンに使者を立てていただければよろしいのに」
そう言う。エルトシャンは、妻を「知らぬは花だな」という目で見て、
「悪いことは言わないグラーニェ、その王子は薦めるな」
といった。
「あらまあ、何故ですの? ハイラインはお隣でしょう? その王子様なら、ノディオンにも近くて、ラケシス様もご安心でしょうに」
目を丸くするグラーニェに、エルトシャンは
「…ラケシスとは徹底的にソリがあわん。詳しいことは話せないが、俺の目で確認している」
「…まあ」
「…グラーニェには、エリオットの話はまだしてなかったかな」
「…ハイラインの王子様とは伺っていますが」
そう言うグラーニェに、エルトシャンはエリオットの話をする。なるべく、個人的な感情抜きで、公平に、士官学校時代と、アグストリア宮廷でされている噂について。
「…」
グラーニェは、にわかには返答できない、という顔をした。
「大道芸をなさる王子様、ですか」
「大道芸だけですむなら話は早いのだがな」
エルトシャンはふう、とため息をついた。
「そし、仮にエリオットがラケシスの相手として無難な男だとしても、だ」
「はい」
「今はだめだ」
「…はぁ」
「アレスが生まれたばかりだろう? 後継者ができたからといって縁談を進めようものなら、それこそラケシスを厄介払いするのと同じではないか」
「それも…そうですわね」
「それに、今ラケシスにいなくなられたら、お前もさびしいだろう」
「…ええ」
「もう少し、彼女がプリンセスらしくなるまで、俺たちが守ってやらねばな」
「そうですね」
夫妻はそう頷きあい、夜の街道を、馬車はノディオンの方へと南下して行った。

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