
さて。
ラケシスは、最上階の手前にある、指揮官の部屋に使っていたのだろう、一番豪勢な部屋に立っていた。
ここにいた男達は、全部倒したと思う。自分も腕足に少々かすり傷を負ったが、戻ってライブをかけてもらえば跡形もなく消えるだろう。
あとは、さっさとここを逃げ出せばいい話である。しかし、ベオウルフに助けをつけてくると言われた手前、せめてこの敷地の中で待つべきだろう。ラケシスは、それでも内側から鍵代わりの掛け金をかけ、へたりと壁に背中を預けた。しかし、その休息も休んだと実感できるほどとれたわけではない。じきに、数人の足音がして、その方を見やりながら、椅子を盾に隠れる。足音は扉の手前で止まる。
「どんな部屋でしょうか」
「…鍵がかかってるな…前からかもな」
そんな会話が聞こえる。
「この奥だったら…」
「開けましょう」
「やってくれねぇか」
「なに、何で俺が」
「いいからやれ、運動しねぇから寒いんだ」
扉の向こう側の人物が体当たりを始める。掛け金はそのうちはずれるか壊れるかしたか、ばかん、という音とともに扉は開かれる。ラケシスは観念して、盾にしていた椅子の背から立ち上がって、「侵入者」達を見据える。
入ってきたのは3人。しかし、そのうちの一人は見たことがある人間だ。
「戻ってきたのね」
と、ベオウルフに声をかける。ベオウルフはつくづくという体で半分あきれたような声を上げた。
「…やれやれ、いつまでじっとしているかとは思ったが、案の定だ」
「外の人たちはどうしたの」
「何、誰も死んじゃいない、縛り上げてあの倉庫にほうりこんである」
「そう」
ラケシスは安堵したように、ベオウルフの向こう側にいる人間を見た。一人は、予想していたとおり、数年前と対して変化もない、貧相なエリオットの顔だ。そして、もうひとりは…
「…」
彼女の視線の先に何があるか、ベオウルフにはわかる。
「…まあ、そんな顔はよしたほうがいいぜ。奥様から使命をいただいて、ここに来たんだから」
と言うと、
「ええ、おおかたそんなところでしょうよ」
ラケシスはたんたんと、ぶっきらぼうにも思えるコトを言う。さらに言葉を続けようとしたとき、足音がばらばらばらと、近づいてくるのを察した。4人は耳を澄ませる。
「あの人たち、目を覚ましたのかしら」
「そうでなかったら、あるいは援軍だろうかね」
「援軍?」
「ああ、姫さんがいくら百戦錬磨のマスターナイト様だって多勢に無勢だ、一人ぐらい逃がしちまったかも知れねぇよ。あらかじめ船で仲間を用意していて、何かの合図で岸に上がる、考えられねぇことではねぇな」
「どうしてそれがわかるの?」
「姫さんの持ってる剣な、海賊がよく持ってるヤツなんだ。剣が短めに作られてて、狭い船の中で立ち回りができるし、作業用にもなる。
まあ、能書きはあとだ。隠れてな、ほんとに売り飛ばされちまうぜ」
「隠れる? そんなこと出来ないわよ。その援軍が何十人だったらどうするの、私だって戦えます」
「バカ、変なところで強情になるんじゃねぇ、あんたがここで怪我以上なことになってみろ、俺はともかくとしてあの二人はどうすりゃいいんだ」
あの二人、と、ベオウルフは、ぼう然と突っ立ってるエリオットと、戸に鍵をかけ直して向こうを伺うフィンとを指した。
「それは」
「わかってるなら、余計なことはしないで」
言いかけたとき、扉がばかん、と開いた。戸口にいちばん近いフィン、そして話している三人がきっと緊張する。
「どうやら、今回も姫さんの勝ちだな、ほら、新しい剣だ」
ベオウルフは持っていた剣をラケシスに渡す。そして、海賊の剣をエリオットに渡す。
「わからんところに隠れてろ」
このベオウルフの判断がいけなかった。援軍にやって来た天馬騎士団とともに、海賊を縛り上げて一息ついて、
「ん?」
いたはずのラケシスと、隠れていたはずのエリオットがいないことに気がつく。どちらかだけが消えたというならまだ困惑のしようもあったが、二人同時ということで
「あんのバカ王子、まだわからん上にこれ以上悶着の種作る気か!」
一通り見回ってきたらしいフィンが、もどるなりのこの声に目を丸くした。
「どうしたんです?」
「どうしたもこうしたも…」
言いかけて、何かの物音がする。二人は音源の有るらしき天井をついと見上げる。
「なあ少年、この上には何が有る?」
「物見ではなかったかと」
「いや…そんな気はしねぇな…」
がさがさと部屋を改めると、日にあせたタペストリーの奥から、開きかけた扉をみつけた。
「扉?」
「この部屋と物見の間に、隠し部屋でも有りそうだな」
二人はためらうことなく扉を開けて、その奥に仕込んである階段を上る。部屋が見えようとしたその瞬間、ぱしぃんっという音が二人の耳に入った。
ある種最悪の展開、というべきか。ラケシスがちょうど、覆いかぶさってきたエリオットの横面をひっぱたいたところだったのだ。エリオットは張られた横面を呆然と押さえている。その呆然としたところにも容赦なく、ベオウルフはこぶしをたたき込んでいた。
「語るに落ちたなバカ王子!」
ラケシスはそのスキに、にじるようにエリオットとの間を空けた。エリオットはそれに我に返り
「何をする、父上にも殴られたことないのに!」
と声を荒げる。
「ええい、どこかで聞いたようなアマちゃんなことヌかしてんじやねぇ、お前、何しようとしてたのかわかってんのか」
「今更お前にどうこういわれる筋合いはない、どのみちラケシスにはアグストリアに帰るより道はないんだろう、早晩そうなるのなら今だって」
「砦一杯に海賊が延びてよけて歩くような状況で、よく役に立つもんだ」
ベオウルフがぶつぶつと、エリオットのある種の度胸のよさにどくともつかない言葉をこぼす間、ラケシスはすと立ち上がって、隠し部屋を出てゆく。動き過ぎて縫い目のほつれかけたドレスをあちこち押さえながら、後ろの男達も振り向かない。ベオウルフが、視線だけ泳がせるフィンの後ろ頭をごん、と押した。
隠し部屋の扉を出ると、消えてゆくラケシスのドレスの端がちらりと見えた。小走りに追いつこうとするが、相手は走っているのだろうか、登り階段を上る姿がちらりと見える。
それも小走りにおいかけると、もうじき日暮れの冷たい空気にさらされて、ラケシスが立っていた。あたかも、後ろから誰かおいかけてくれるだろうということを期待していたようで、下り階段の見えるところに立っていた。
フィンはつんのめりそうになりつつ足を止めた。そして、ゆっくりと足下に近づいてから、もっともらしく片ひざをついた。
「お迎えに上がりました」
「…」
ラケシスの返答はない。つい、と視線を背けて、落ちようという光を見た。
「若干手間取りましたが、王女に危害をあたえんを画策するものは、あらかた排除されました。
賊への詮議に、多少お手を煩わすことも有りましょうが、今は一度セイレーンまでお戻り戴けますよう」
王女は物見の塀についと腰をかける。その頃には、後の二人も、物見に上がってきていた。
「ねえ」
槍を脇に置き、片ひざをついて、軽く視線を伏せたフィンに、ラケシスは探るように聞いた。
「たとえば、あそこにいるエリオットと、私が結婚するとなったら、あなたどう思う?」
「…」
フィンは振り返って、エリオットを見た。それから向き直って、
「アグストリアのやんごとない筋同志、私にはこれ以上もなく良縁かと思われます」
「本当に?」
「…はい」
そりやり取りを見て、ベオウルフは「お互い素直じゃないねぇ」という苦笑いをする。ラケシスは「あ、そ」という顔をした。しかしエリオットはそれに気を良くしたのか
「ならば障害は何もないじゃないか。
なあ、ラケシス、アグストリアの未来は俺達の上に有るんだ。一緒に帰ろうじゃないか」
と甘ったれた声を出す。
「ええ、それもいいでしょうね」
ラケシスは、居座りを直した。
「私もアグストリアに帰りたいわ。私の故郷だし。
でも、私があの場所に帰ったとしても、私がいて欲しいと思うひとは、だれもいないの。
お母様も、おじい様も。後は、言わなくてもわかるでしょ?
あなたは、私への障害が無くなったと思っているでしょうけれど、私をたぶらかすなら、せめて、私のこの二年をもっと理解してからにして欲しいわ」
「そんな」
エリオットが一歩踏み出すと、ラケシスは
「近づかないで」
と言った。二人の間は数歩はなれてているが、動くなと言われると、エリオットもぎょっとしてその場に立ちすくむ。
「私ね…」
と言うラケシスの瞳に、うるうると涙が溜まってくる。冬も盛りは過ぎたといっても、夕方になればまだまだ風も冷たい。しかし肩が震えているのは、決して寒さだけではない。
「アグストリアの王女っていわれるのが、今いちばんつらいの」
「…」
「私がめちゃくちゃにして、人々を苦しませて、悲しませて…私にはもう、あそこに帰る資格なんてないのよ…」
「ですが」
エリオットにはもとより、そのラケシスの嘆きには何も返す言葉はない。しかし、ラケシスの足下のフィンは、しばしうなだれてから、言った。
「アグストリアの民は、たとえ王女のおっしゃることが真実だとしても、王女にはお戻りいただきたいと、願っているはずです。
王女はアグストリアを構成していた王国の王族であると当時に、砦の聖者ヘズルの枝葉として、伝えるべき血をお持ちです。
お戻りになり、苦境の人々を慰撫することが、何よりの贖いと、僭越ながら存じます」
ラケシスの涙は、フィンの言葉の間にも、止まる気配はない。むしろ、ぬぐう側からあふれるようで、見てて痛々しいまでだ。
「ほら、そこの騎士もそう言うじゃないか。
ラケシス、俺と一緒に帰ろう」
エリオットも、だんだんとなだめすかすような口ぶりになる。
「後のことは帰ってから考えればいいじゃないか。
だから」
また一歩を進み出す。しかしラケシスは
「近くに来ないでっていったでしょ!」
と、今まで座っていた縁に立ち上がった。
「!」
一瞬、そのまま向こう側に飛び降りられそうになり、場の空気が凍る。しかしラケシスはそこで動きをとめた。
「私が本当に欲しいのはそういう言葉じゃないのに…」
ぬぐうのを忘れた涙が頬を伝う。寒さに白くなった唇がかすかに震えて、それはそれで妖艶とも言える風情だ。
「姫さん、動くなよ。頼むから動くな」
ベオウルフが言う。目を放すと、もっと最悪の事態になりそうで、目が離せない。天馬騎士の姿がないかと、視線を泳がせるが、こういうときに限って、海賊どもの見張りをしているのだろう、姿はない。日がいよいよ落ちてゆく。風が心なしか強くなる。パニエの入っていないドレスが、風をはらんでふわりと広がる。
三人は、正直それに一瞬目を奪われていた。が、ラケシスは三人をゆっくりと一瞥した後、足がとん、と足場を離れる。明らかに、風に煽られたようではなかった。
「うわああっ」
エリオットの取り乱す声。ベオウルフも我に返った。
「南無三!」
しかし、もっと速い行動がもっと最悪の事態を防いでいた。確かにラケシスの体は、完全に砦の外に躍り出ていた。しかし、落ちようとするそのドレスの端を、身を乗り出したフィンの手がとらえていたのである。ラケシスのの体は不自然に砦からぶら下がる。ドレスの縫い目がはじけるぶちぶちっとした音が、不吉に聞こえた。ラケシスも反射的に、ドレスをつかむフィンの手をとる。涙の残る彼女の瞳孔が、流石に恐怖で広がった。しかし、捕まれるドレスの場所が悪い。翻る裾から、破れ目だらけの靴下と下着が見え隠れする。しかしそんなことは今はどうでもいい。自分の上半身と、ラケシスの体をのすべてを支える力を込めた夜明けの青の目が、この手を離さないことを何よりも語っていた。
砦からは、そのフィンの下半身が見えている状態だ。ベオウルフもとっさに、少年の腰を支える。二人で支えれば、落ちるということもないし、エリオットの声で飛び出した天馬騎士も、下に控えている。向こう側に身を乗り出すが
「姫さま、なんてあで姿だ」
と憎まれ口の一言も出る。とまれズルズルと、物見の中にラケシスを収容すると、冷えて真っ白の肩に、フィンがつけていた自分のローブを着せるヒマもなく、彼女は目の前の騎士に取りすがり、小さな子供のように泣き始めた。フィンは突然のことに一瞬目を白黒させる。ベオウルフは肩をすくめて
「俺達は先に帰るわ」
と言った。
「いいか少年、お前らはゆっくり帰ってこいよ、ゆっくりな」
「は?」
フィンとエリオットが、同時に声をあげた。
「いいから。
で、王子さん、お前はこっちだ」
有無を言わせない雰囲気で腕を引かれるのに、エリオットはすべからく抵抗する。
「お、おい、いいのか、ラケシスをそのままにして」
と納得していない。そのままにしていれば、一緒に帰りたそうな風情だ。しかしベオウルフは、それでもエリオットの腕を引いた。
「いいんだよ、あとはあれにまかしときゃ」
「どういうことだ、俺にはなんのことだかさっばりなんだぞ」
「うるさい、後で一時間でも二時間でも、たっぷり聞かせてやらぁ」
考えてみれば当たり前のことだ。ベオウルフだって、あんな濡れ場など見ていたくはないのだから。
結局その晩、セイレーン城東翼の最上階の一室は、夜明け近くなるまで明かりが消えなかったという話である。ベオウルフは、何とはなしに居住まいの悪い城を抜け出して、一晩飲んでいたから、詳しいことはわからない。
「傾国っていうのは、心底ああいう姫さまのことを言うんかもしれねぇな」
なんてことを思っても見たが、だとしたら、国も何もないあの少年がいれば、傾く国もないということで、安泰、ということか。
エスリンは例によって、ご夫君にこってり絞られたろうが、ご夫君も奥方の機嫌にはうるさい口、お小言も哀れになってそのうち大事ないのが幸いとお許しになったことだろう。
ベオウルフは、一番の貧乏くじを引いたエリオットを心から同情した。彼はまもなくアグストリアに送られたが、ハイライン家にもどり、それなりに家庭を築いたのか、その後の話は、結局聞くことは出来なかった。
レンスター国の一行が、国許にもどるのは、それから二ヶ月ばかり後の話になる。
をはり。
