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となりでねむらせて(続・天使のいる場所)


 「もう知らないっ あっち行っててっ 入って来ないでっ」
セイレーン城東翼の最上階。たまたま通りかかったメイドが、差し掛かった部屋のドアからこういう黄色い怒号がとどろくのを聞いた。
「なにごとかしら?」
なにか問題でも起きたかと、半開きになっているドアを入室のためにノックしようかとしたところ、
「フィンのバカッ!」
かくのごとき決め台詞と、それに弾き飛ばされるように、何かの影が、ドアをやぶらんばかりの勢いで殺到してきた。
「きゃああっ」
メイドは反射的に後ずさりして、腰を抜かした。はたして、羽根枕を抱えて廊下にしりもちをついたようにのめった青髪紅顔の騎士に、ドアの影からのびた白い手が、丸めたローブを投げ付ける。
「そこにいないでってばっ」
ふたたび声がかん高く響き、あきらかに目を白黒させた騎士は、弾かれるように、廊下を走って去っていった。

「だぁっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっ」
 そのしばらく後、城の大食堂。そこにベオウルフの爆笑が響く。
「そ、そんなに笑わないで下さい…」
その差し向いに小さくなっているのが、先程弾き飛ばされてきた話題の主・フィンである。
「すまんすまん、しかしなぁ…はははははは」
何か言おうとするが笑いの方が先に立って、やがてその笑いも苦しそうになってくる。
「ひぃ、…ひぃ…」
フィンは半分ぐらい、こうなった事情が分からずに、こんな反応をするベオウルフに、憮然としている。
 最初はなんでもない朝だったはずだ。
 舞台になったセイレーン城東翼最上階の部屋は、提供のラーナ王妃から眺望無二との御墨付きを戴いている。その部屋が、ラケシスにあてがわれているということは、ひとえに、入国当時傷心の極みだった王女を慮った王妃の心遣いに他ならない。
 セイレーンでの生活は、確かに、彼女の傷心を十分に癒した。もっとも、部屋だけがその薬になった訳ではなく、かつてにかわりないあでやかな微笑みが戻る頃には、部屋の住人はひとりではなく、二人になっていたわけなのだが。
 その朝は、フィンの方が先に起きた。いや、正確には跳ね起きた。もれる日ざしを我に返るようにはっとみやってから
「しまった!」
今日のラケシスにはいろいろ予定があったことを思い出したのだ。本当なら、もっと早く起きてゆっくりと王女の目覚めを待つつもりだったのだが…うっかりと言ってもいい、眠りこけていたのは、前夜が響いているだけの話だろう。もちろん、今のあわてているフィンにそこまでの洞察はない。
「王女、お目をさまされて下さい、王女!」
傍らのラケシスを揺すり起こそうとする。まだ王女は夜半からの陶然とした余韻を引きずっていた。いくら用事があるとはいえ、彼女にはまだ早い刻限なのだ。ラケシスは目を開けたようだったが、「うん」となにか呟いて、すぐにそっぽを向いた。
「ご朝食の前に、フュリー殿から槍の教練を受けたいと、おっしゃっていたのは王女ではございませんか、それに、昼からはラーナ王妃殿下の御招待を戴いております。
 早くお目をさまされて」
しずかになるとまた眠ってしまう。フィンは、ふとんを叩き、まくらもとを叩き、肩を叩き、ほほを叩く。ラケシスはそこで、やっと、はしばみの瞳をぱっちり開けた。
「…教練は、やめる」
「いけません、それではフュリ?殿に失礼です。さ、王女」
「いやよ、起きられないんだもの」
「…」
フィンは実に困った顔をした。
「今度の模擬戦の為に、教練でフュリー殿の手の内を御覧になっておくのではありませんでしたか?」
「…大丈夫、私にはいい槍の先生がついてるから…」
「そういうことではなくて」
フィンがいいかけた時、小さくペガサスのなく声がする。いよいよいせき立てるように
「失礼しますっ」
と、ふとんを剥がした。昨晩、気を失うように眠った時のままの姿で、ラケシスがぼうっと腕を寝台の面についていた。着替えもそこそこになだれ込んだのか、身に付けているものといえば肌より白い絹の靴下と、それを腰から吊りとめる、これも真っ白なレースのガーター止めぐらい、肌には未ださめやらぬ事後の上気が残り、二十四金色の髪が寝乱れて、無理矢理おこされるよりは蒸し返しの一回でもお願いされたそうな風情なのだが、…いかんせん、相手がフィンではその風情を理解せよというのは無理というものだろう。
「お召し替えしましょう、お早く」
フィンはそう言って、勝手知ったふうにクローゼットの中に入って行ってしまう。自分とメイドの他にはふつう入れない場所だ。それまで寝ぼけ眼だったラケシスもそれを見るなり
「あ、ちょっとまって」
眠気が吹き飛んだ声になる。後を追おうと飛び出そうとしたが、ほとんど裸でははしたない。せめてと、シーツをまとう間も、クローゼットの向こうでは、すでに、ごそごそ物色する音が始まっている。音に無駄がないところを見ると、何かのおりに入り込んで下調べをすませているのだろう。そのうち
「あっ」
何か困った声をあげて、フィンが飛び出してきた。ラケシスの顔には、もう昨晩の記憶のかけらもない。
「申し訳ありません」
「どうしたの」
返答にもやや感情がない。しかしフィンは気付かずに、
「シレジア城においでになるお衣装につける、ガーター止めと髪飾りがまだ届いておりません。
 催促して参りますので、今はまず教練着にお召し替え下さい」
そして、衣装の入った平たい箱を持ってくる。
「こちらに…」

 そして、冒頭に繋がるのだ。
 フィンは、直後のラケシスの行動に、正直面喰らった。ただ自分は、いろいろ予定がある今日一日と言うものを、万事滞りなく過ごしてもらいたかっただけなのだが。
 ラケシスは「バカッ」と絶叫しながら、手近の枕をつかんで、フィンの顔面に叩きこむように投げ付けてきた。最高水準の心技体を、史上初王女の身分で得たマスターナイトの攻撃力である。事と次第によればフィンのそれより上回るかも知れない。とにかく訳の分からないまま、気がついたら部屋の外にまで転がされていた。
 てん末を聞いて、ひとしきりわらったベオウルフに、フィンは、
「あの、私、何か」
とおそるおそる聞いてみる。自分が手に負えない、何やら感情のからんださまざまなことを、この男はいとも簡単に分析して傾向と対策を指南してくれる。その意味ではこの、朝っぱらから一杯傾ける男はある種師匠でもある。ベオウルフは笑い過ぎて乾いたのどをうるおすように、エールをひとくち含んでから、
「そりゃお前が悪いよ少年、いくら人の世話にはなれてるったって、男の主人とは訳が違う、下着の心配までされちゃ姫さんも困るだろう」
「でも、ですね」
「大体だな、お前は姫さんのご家来衆じゃないんだから、そういうのはメイドにまかせときゃいいの」
「はあ…」
「まあ、そういう杓子定規なところがお前のいいところなのかもしれんけどね。
 で、当の姫さんはいまどうしてるの」
「今は教練に向かわれたと思います。なにぶん、朝以来お伺いしていないもので」
ベオウルフは処置無し、と言うように肩を竦めた。
「…お前の話は前からいろいろ聞いてきたつもりだが…今回はことに重症だな、修復にはきっと時間がかかるぞ」
「かかりますか」
「かかるねぇ」
その言葉には、半分ぐらいは投げやりな所もあった。それでもフィンは、おそらくそれが自分の考えていた結末に似ているのだろう、しおしおとした顔をする。
 そこに、さっと気配が入り込んできて、食堂が一瞬静まる。教練着ではなかったが、軽快な部屋着のラケシスが入り口に立っている。
「フュリーはいる?」
と、メイドに聞きながら、はしばみの瞳はす、す、と左右を見、二人のいる辺りを特に念入りに見、「おはようございます」と近づいてきたフュリーに、「おはよう」と目を細める。
「教練のお相手はいかが致しましょうか」
と、約束の時間に来なかったことを責めもせず、上品にフュリーが聞く。
「ええ、短い間でいいなら、お願いしたいわ。着替えるから待ってくれる?」
「はい」
 フュリーは、再び準備かに、食堂を出てゆく。ラケシスも、もう一度ベオウルフらを見てから、唇をヘの字にしたような顔で元来た道をもどる。一部始終を、フィンの、有るかないかのため息が締めくくった。ただベオウルフは、彼女の視線には、男友達に無理なわがままを通そうとして、自分一人で腹を立てる不変の乙女心を感じていた。
 ラケシスの立場からして…ふつうそう言う無礼を働いた人間はたたき出してそのまま知らんぷりを続ければいいだけの話である。
 普通なら。
 ベオウルフは、その姫様の心身共の芯の部分をがっちり掴まされた目の前の騎士を、やや羨望と同情の隠った視線で見つめていた。
 この少年も、なんのかの青春のまっただなかというヤツだ。

 フィンが用意した教練着は、色も模様もちぐはぐの選択をされたものだ。だがラケシスは、半分ぐらい意地になった顔でそれを着て、遅くなった教練に臨んでいる。
「…」
フュリーは、そのいでたちと表情とになにかの悶着があったらしいことは察したが、取りあえず言わずにおいた。自分が口出しすべき範疇の事ではないのだろうから。
「フュリー、甘くしないで!」
息を切らせたラケシスの声がする。
「甘くなんてしておりません、王女様が御上達されたのですよ」
ラケシスの動きには妙にいらない力がこもっている。だから息も上がるのだが、本当は肩が動くほどでもない。でもフュリーは、それには何も言わなかった。
「まさか、そうじゃなければどうして模擬戦でまけるのよ!」
槍を振るえば振るう程、分からなくなってくる。
「王女様、もうお止めになりましょう、午後はわが王妃が御招待下さっています、お怪我がありましたら、私…」
「もう少し!」
 出発ギリギリの時間になるまで、その教練は続いたらしいが… もちろん、出発に際しては、いつものように、物陰から心配そうに顔を出してくる青い影を、ラケシスはこれでもかという程の見て見ないフリをした訳である。

 そして、このてん末は、また一人の人物の心の琴線をおおきくゆらした。
「あっはっははははははは」
と、すこやかな笑い声をたてているのは、エスリンその人である。ラーナと面会したときにラケシスの様子がおかしかったと話を聞き、顛末を説明したベオウルフなのだが、自分がさっきそう笑ったこともタナにあげて、
「あんまり笑わないでやってくださいよ」
と、苦笑いをした。
「そうね、そうね、でも…あはははは」
エスリンも、ひとしきり、顔の肉が痛くなる程に笑ったのか、まだぴくぴくとする頬を手で抑えながら
「それで、当のフィンはどうしているの?」
と聞いた。
「はぁ、姫さんがお怒りになった理由がわからないとかで…考えこんじまってました」
「ラケシスは?」
「姫さんも姫さんでああいうタチでらっしゃるから」
「ああそう、だからふてくされているのね」
エスリンは、小さなベッドで眠っているリーフの様子を見て、侍女に何か言いおいた後、
「ベオウルフ、町に出ない?」
と言った。

 「やんごとない姫君様が一度機嫌を悪くすると、それはそれは直すのにかかるのよ」
とは、道道のエスリンの言葉である。
「一流の宮廷人が苦労するところを、文字どおりの真面目一歩槍のフィンがやれって言われても、それは無理って言うものだわ」
「でしょうねえ」
ベオウルフは、それにナマな相槌を加えながら、セイレーンの城下町にはいってゆく。
「にしても、いいんですか奥様? お子さまもお有りになる方が、俺みたいなのひとり付けただけでお出歩きとは」
「いいじゃない、毎日毎日、お城の中にいたら退屈しちゃう」
エスリンは、町娘という風情のいでたちで、雪で真っ白の往来を、小走りに歩いてゆく。どこに当局の刺客がいるものだかわかったものではないのに。
 そのエスリンが、ぴたっと、足を止め、
「ベオウルフ、」
と、駆け寄ってきた。
「なに? あの人たち」
「はい?」
さされたほうを向いて、遠巻きだがしげしげと眺めた後、
「ああ…『巡礼者』、かもしれないですね」
と言った。
「巡礼者?」
「はぁ、エッダの聖地を巡って回って、その間は人様からああして施しを受けて暮らしている輩で… まあ中には、どっちが目的かわからんようになったのもいます」
「そうなの」
エスリンはやや眉を潜めてその方を見た。見ている巡礼者は数人で、一様に道行きの外套を頭からかぶっているが主従と言った趣で、主人らしい一人を背後に据えて、後の者が道の左右を見回して、慈悲を求めている。
「巡礼でございます」
「巡礼でございます」
ふとエスリンが、服のあちこちを叩いて、見つけた袋を取り出した。
「えと、これでいいかしら」
「うわぁ」
ベオウルフは、その手をあわてて引っ込めさせる。
「奥様、巡礼に金貨なんて… このへんじゃ金貨一枚で二三日遊んで暮らせるってのに」
そして、自分の服の隠しから、銅貨を数枚出した。
「これでも出し過ぎなくらいだ」
と、巡礼の差し出す器に投げ込む。
「あ、ありがとうございます」
「御主人様、これで今日のお食事は何とかなりますよ、この方にお礼を」
「…」
主人らしい男は、適当な木箱にどっかりと腰をおろしたままで、何も言わない。外套のすそからのぞいている靴は、徹底的にはきつぶされていたが、もともとはなかなかのつくりであろう。
「御主人様」
「ええい、うるさいっ」
主人らしい男が、立ち上がって、従者を一喝した。
「御主人様御主人様と、往来で連呼するな!」
立ち上がる勢いに、外套がずれて、男の顔があらわになる。
「見せ物じゃないぞ、立ち去れ!」
男が、あっけに執られて動けなくなっている二人にも向き直ったが、その顔が一瞬凍る。
「げ、お、お前は!」


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