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 女神をたたえる祭りはパナテナイアの祭りとよばれる。祭りの間、聖域の住人は女神の偉業を語り継ぎ、また女神のもとで戦っただれかれという古の聖闘士の話をし、また聖闘士や雑兵らが己の修めた技能を披露する競技会が何度も催され、心身ともに女神の下僕たらんことを祈り、また顕示してゆくことが求められる。
 今日明日にも女神が現し身を借りて光臨するかもしれない、そんな期待の中、今年の祭りは節目として、さらに大々的に営まれた。
 といっても、聖闘士でない聖域の住人にとっては、祭りなど浮かれる口実でしかなく、祭りの間はそこかしこに、アテナを讃えながら路上に酔いつぶれる者たちの姿も見られるのが常だった。
 もちろん、聖闘士には、そんなことは許されない。修行は普通に行われるし、女神への儀式も、より厳正に、荘厳に行われる必要があった。聖闘士たちは、アテナの下僕であると同時に、神官でもあるのだ。
 黄金聖闘士となれば、その儀式を先頭に立っていとまなければならない立場である。
このころの黄金聖闘士の編成は、サガとアイオロスが特別若いほかは、空席か、次代に聖衣を引き継ぐために在位している老いた戦士ばかりであった。
 老黄金聖闘士たちは、自分の孫ほどにもなる二人に、アテナを祭る秘事をあれこれと指南した。アイオロスは、そんなことは早く終わりにして、下で行われる宴のほうに参加したそうだったが、サガは儀式の次第をしっかりと、頭に入れようとしていた。それでも、手を止められるときができると、ぼんやりと思うのだった。
「彼女も、今は女子区で儀式をしているのかな」
女子区は、すべてのことを男の世界とは別に、独自でやる習わしになっているようだから、このパナテナイアの儀式も、女たちだけで営まれているはずだ。
「これが終わったら、会えるかな」
謎の女に、深層をえぐるように嬲られたサガだったが、気がついたら自分は普通に眠っていた。それからずいぶんになるような気がしたが、どこにも変わったところはない。ただ最近は、サクミスのことを考えるのに、抵抗はなくなっていた。
「誰かを好きになるって言うのは、悪くないな」
これがそういうものなのかと割り切ってしまえば、楽になった。修行の妨げになると、意識して遠ざけてきたのが、馬鹿らしくなるほどだった。うわさにも、知らぬ顔を決め付けていれば、いつの間にかそんな話もなくなった。
 サクミスとは、仕事以外でも、会って話をするぐらいにはなっていた。この日も、パナテナイアの儀式が終わったら、ぶらりと散歩でもしながら話そうということになっていた。
 それが、老聖闘士たちとの清談につい足を止められて、待ち合わせの時間に遅くなったサガを、サクミスは文句のひとつも言わずに待っていた。
しかもそのいでたちたるや、いつもの教練着ではなく、時代的に、ひだをたっぷりとよせた、神話の美女もかくやという格好である。
「ど、どうしたの、それは」
一瞬、言葉に詰まった後、平静を装ってサガが問うと、サクミスは、
「リムノレイア様からいただきました」
と答えた。パナテナイアの儀式には、聖闘士は聖衣で参加するはずだ、ならば彼女はここに来るために着替えたのか。
「母さんから?」
どうして、母リムノレイアがサクミスに服を送る義理なんてあるのだろう。そう考える。サクミスは、明らかに、仮面の下のほほを染めているようだった、耳たぶがほんのり赤い。
「はい。このごろとてもよくしてくださいます。今日も、こういう衣装のひとつぐらい、持っていても損はないだろうとおっしゃられて」
「…へぇ」
サガはそれでも、サクミスが母から衣装を送られるのかわからなかった。本人の思案の外でサクミスを取り込んだつもりでいることが悟れるほどには、まだサガは精神的に成長しきっていないのだ。
「似合うよ、きれいだ」
でも、見た印象からその感想を述べることはできる。きっと彼女も、自分に見てもらいたくて、その格好でここにいることはわかったから。
「あ、ありがとうございます」
サクミスは消え入るような声で言った。
「仮面をしたままなのが、もったいないほどだね」
といってから、サガは、あ、と口を押さえた。聖闘士の女子が仮面を取るのは、生死を決めるほどの重大な局面であるという話を思い出したのだ。ゴルゴニオは、そういう機微を授けるために自分の家をたずねさせた二人の黄金聖闘士に、こういっていた。
「間違っても、男の口から、仮面をとって見ろなどと、戯れでも世辞でも言ってはいかん。女聖闘士の仮面は、元来少年しか容れぬ女神のご意思に感じて、女を捨てて女神をお守り奉る覚悟をこめたもの」
しかし自分の言葉は、言外にそれを要求しているのではないか、サガはそう受け取られることを心配したのである。
「ごめん、今のは聞かなかったことに」
そういったが、サクミスはうつむいたままだった。
「…怒った?」
つい、小さな子供じみた物言いになり、サガはサクミスのうつむいた顔を覗き込むようにしてしまう。サクミスは、ふいとサガに背を向けて、ずいぶんと何かを考えているようだった。
「ごめん、気がつかなくて」
サガがもう一度言う。サクミスが、ややあってから
「大丈夫ですよ、怒ってないです」
と答えた。その言葉に、サガはほっと肩の力を抜く。
パナテナイアの祭りは夏の始まりに行われる。昼の時間はだいぶ長いが、それでも二人の周りには、ようようと夕闇が訪れようとしていた。宴はこれからという人々の浮かれる声が、小さく聞こえてきた。
「帰ろう。君がいないことを心配させちゃいけない」
そういって、サガは、サスミスの背を押した。二三歩押されるままに歩いてから、サクミスはふと振り返り、
「私」
と、長く息を貯めてから言った。
「サガ様の前でなら、…いいです」
「え?」
「仮面、とります」
「え、ち、ちょっとまって」
サガの声がうろたえる。
「そんなことしたら、だめだよ。人前で取ってはいけないって、言われて」
「でもいいんです」
サクミスはふるふるとかぶりをふった。
「…サガ様には、その資格がおありだから…」
その声はつぶやくように小さかったが、サガはそれに、脊髄を針で狙い撃ちにされたような刺激を感じた。
サガは、心臓が口から飛び出そうだった。サクミスの手を取る。激しい修行に痛めつけているはずなのに、その手はやわらかい。
「…いいの? そんなことをしても」
声はまだうろたえていたが、つっぱねるような雰囲気ではなかった。サクミスは、小さくうなずいて、恥ずかしさからか、仮面の上から顔を覆ってしゃがみこんだ。
「わかった」
サガも腰を落として、サクミスに言った。
「僕以外に見られたくないなら、二人になれるところを探そう。
おいで」
サガは、握り締めたままの手を引いた。そして二人は、ふわふわと浮くような足取りで歩き始める。
その二人の気づかない夕闇の中で、白い女の顔が嫣然と笑む。

薄い小麦色をしたサクミスの目じりには、緊張が一気に解けたのか、涙すら浮かんでいた。それを指でぬぐって、サガは話しかけた。
「じゃあ、君は両親を知らないのか」
「はい。私が聖闘士となる運命を得ていたからでしょうか、親とは縁が薄くて…
聖域にゆかりのある人に拾われ、お師匠様に託され、そこで名前もいただいたのです」
「でも、サクミスとは、勇ましい名前だね。獅子の顔をした、エジプトの戦の女神の名前だ」
「はい。聖闘士の資格を得たときに、新しく頂いた名前です」
「…聖闘士になる前は、なんと呼ばれていたの」
「…ヘリオドーラ」
「僕は、その名前のほうがいいな」
素直に感想を返すと、サクミスのほほがいっそう赤くなった。
「…では、二人でいるときは、どうぞその名前で呼んでください」
「いいよ。今からでいいかな?」
「…はい」
サガの指が、結い上げていたサクミスの髪の中に入って、はらはらとそれを崩した。
「ヘリオドーラ、僕を見て」
「…はい」
サクミスが顔を上げた。その体を、今度は幻などではない、質感のはっきりしたそのものを抱きしめる。
「なぜかわからないけど、前から、こうしてみたかったんだ」
「…私も、です」
そこから先の言葉はなかった。サクミスは、泣き出してしまったのか、吐く息が震えていた。

 まだ、足が空を踏んでいるようだった。
 パナテナイアの祭りの明かりは、まだ、消えることを知らないように煌々と四方を照らし、はるかにそびえるアテナ神殿が、その明かりに浮かび上がっている。
 さっきまで、その荘厳な風景を一緒に眺めていた、サクミスの表情は、自分にはとても愛らしく思えた。隔てなく触れ合ったその興奮の名残がそう思わせるものだとしても、この時代を彼女とともにあることを、サガは感謝すらしたい気持ちだった。もっとも、アテナは処女神であり、二人ともその下僕たれと世に下されたのだから、出逢えたことを感謝されてもあずかり知らない顔をするだろうが。
 遅くなりすぎると家族が心配するだろう。サガはもう、この年代にしては思慮的な少年に戻っていた。
走り出そうとして、自分を注視する攻撃的な気配を感じ取って、サガは立ち止まった。
「お前と顔をあわせる時がきたら、ひとつどうしても聞きたいことがあった」
そして、その攻撃な気配…いやも「小宇宙」と言い直したほうがいいかもしれない…にサガが問うと、そばの木の枝が、明らかに風の影響ではない、複雑な揺れ方をした。
「カノン、なぜここに帰ってきた」
果たして、闇の中から溶け出すように、カノンの姿がぼんやりと浮かび上がった。
「久しぶりに兄弟に会った台詞にしては、穏やかじゃないな」
「何を言う、お前も、多少は賢くなったようだな。今のクリュメノスにはお前の居場所などないことがわかったと見える」
「聖者ヅラして俺に説教か?」
カノンが、くく、と、ひねた笑いをした。
「俺に隠し事はできないぜ、なんたって、兄弟なんだからな」
「どうして戻ってきたと聞いている!」
サガは、一足飛びに、カノンのいるところまで跳躍し、枝からつかみ落とした。
「あのままおとなしく別荘にいれば、命だけは永らえたかもしれないのに!」
「帰ってきたのも、ある意味は正解だったもしれないぜ? おかげでお前の無様な姿を見ることができた」
「何!」
サガの顔に一瞬朱がはしった。そのスキをついて、カノンがサガの手を振り払った。
「お前…」
「そんな大きな声を出していいのかよ、俺がここにいることがばれるぜ?もっとも、俺は一向に構わないがな。当主も同然のお前が、俺の管理をしっかりしていなかっただけのことだからな」
「お前が帰ってきていたのは、僕も知っている。僕と同じ顔で、お前が何をしてきたかも知っている。
お前は、どうして、力ではお前に適う者はないと知りながら、敢えて力に走るのだ。こんなお前でも、僕は粗雑に扱えないのが恨めしい。
今ここで私に何かあれば、当主はともかく、適任者がもう一族にはいない双子座の聖衣は、お前が預かるというのがわかっているのだろうな」
「俺はその双子座への道を閉ざされたんだ、戻るつもりはない」
カノンは、くるりときびすを返した。サガが
「どこに行く」
と尋ねるが、
「そこまで心配してもらう義理はない」
カノンはぶっきらぼうに
「忘れるなよ。俺はいつも、お前のそばで、お前の出したボロをあざ笑ってやるからな」
と闇のなかに消えていった。
「せいぜい、あの女と仲良くやるがいい」


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