あれから私は、時々、自分の体の様子を見に、体の所に降りることを繰り返していた。
何度行っても、石になってしまった私は動きもしないし、水の枯れてしまったオアシスの町に立ち寄るものもない。私は、ただ、時々明かりとりの窓から風に舞い上げられて落ちてくる、少しずつの砂が、私の上に落ちてゆくのを、ただ黙って見ているだけだ。
この砂漠の夜を、綺麗と一度でも思ってしまった時、私は既に何かの魔法にかけられてしまったのだろう。
でも、満ちた月に、砂と建物が白く浮かぶ、幻想的な光景は、私が私でなければ、きっと一生見ることができなかったものだと思う。
建物の屋根の上で、その月と、月の真下の眠る町並みを見ていた、その時だった。
私の背後に、何かの気配がして、
「みぃつけた」
と、少女の声がした。私は…もしこのエーギルの体に心臓があればの話しだけれど…心臓がつぶれそうな思いで振返った。
少女は、銀色の髪をして、私を、見える年ごろよりはずっと幼い笑顔で私を見ている。
「わ、私が見えるの?」
私の間が抜けた問いに、少女は「うん」と頷いて
「見えるの」
と言った。そして、
「あなた? わたしにずっと、たすけてって、言っていたのは」
と言った。
私は、「助けて」なんて、言った覚えは無かった。石にされた当初は言ったこともあったかもしれないけれど、私は、取り乱すように「今すぐにも私を、体に戻して」と訴えた事などなかったと思うのだ。
「私、そんな事した覚えはないわ」
それを正直に言うと、少女は
「うそつきさんはだめよ」
と言った。
「サラには、あなたが、たすけてっていっているのがわかるの。
この下に、あなたの体があるのね。そのからだが、いってるの」
私のからだ、か。それは仕方ないわ。
「それでサラ、あなたはどう、私を助けてくれるの?」
そう尋ねて見る。でもサラはその質問には答えないで、
「あの魔法は、ストーンの魔法ね」
と言った。
「あの魔法をかけた人を、私はしってるの。ベルドっていうの。おじい様に褒められたくて、難しいストーンの魔法を覚えたの」
「おじいさま?」
「うん。…でもサラは、おじいさまきらい。もういなくなってしまったけど、いまもきらい」
おそらく、何かの、魔力の強い家の出身なのだろう。このサラと言う少女は、自分のいる場所から、この私の所まで、意識を飛ばしているのにちがいない。
「サラのおじいさまって、どんなひとだったの?」
「サラがうまれたから、おとうさまとおかあさまをころしたの。
それで、サラがキアをつかえるから、キアをどこかに隠したり、わたしを迷いの森に閉じこめたりして、いじわるしたの」
迷いの森。私にもう少し、考える余裕があれば、それがどこか思い出したかもしれない。でも私は、その時は、そのことにはまるで気をかけていなかった。
「キアというのは、魔法?」
「ううん、杖。でも、サラにしか使えないの。ストーンで石になった人を、もとにもどすの」
「それを使えば、私も、元に戻れる?」
やっとそこにたどり着いた質問を言うと、サラは
「もどれるよ」
と答えた。
でも、私が今ここでこんな状態になっているのを、一体どう知らせたら良いのかしら。
「でもサラ」
と私は言った。
「あなただけが私を見つけても、今ここにそのキアがなければ、私を助けられないわよね」
「うん」
「あなたはいま、どこにいるの?」
「アレンっていう、町にいるの。迷いの森の近くなの」
「アレン!?」
私は裏返った声を上げた。するとサラはきょとん、とした顔をして、
「あなたはアレンを知っているの?」
「ええ、知ってるわ、あの町に住んでいたのだもの」
「私は、帰る所がなくなっちゃったから、リーフ様がアレンに住みなさいっていってくれたからいるの。
時々、迷いの森に行って、セイラムとお話するの」
まさか、こんな小さな少女から、アレンとリーフ様の名前を聞くとは思わなかった。
「私も、リーフ様をよく知っているのよ、今あの方はどうしているの?」
そう尋ねると、サラは
「王様になったの」
と言った。
「では、レンスターは無事に奪還できたのね」
「よくわからないけど、レンスターはただのお城があるところよ。セリス様が、わるいことしたおじい様とその仲間を全部こらしめてしまったから、今リーフ様はアグストリアでお友達のお手伝いをしているの」
セリス様というと、ティルナノグに隠されたシグルド様のお子様のことかしら。でも、このサラは、詳しいことはあまり、理解をしていないようだ。ただ私にわかるのは、あれから、大陸に何か大きい動乱めいたことがあってセリス様が世にお出になったということだ。できれば、それが吉報であればよいのだけれど。
私は、サラの話しに「そうなの」と軽く相づちを打って、
「アレンの人たちは元気なの?」
と尋ねた。双子の従騎士ブランとシュコラン、私によくしてくれたフローラ、そして一族の人たち。私の安否は、きっと心配されているのに違いない。
「うん。みんなサラに優しいの。それで、みんな少し、わくわくしてるの」
「わくわく?」
「ご領主様が旅に出て、奥様を探してくるから」
「本当に!?」
私は思わずサラに取りすがろうとした。でも、エーギル体と飛ばされた意識はまた別のものなのだろう。私の手は、サラの腕をすうっと通り過ぎた。
「あなた、」
サラの顔が一瞬だけ、いぶかしい顔になる。
「奥様って人を知ってるの?」
「知ってるも何も、それは私なのよ」
「そうなの」
私にしては、大切なことを伝えたつもりだった。でもサラは、その表情に大した情動もなく、そう答えただけだった。
「ねえサラ、そのご領主様はどこにいるの?」
「この砂漠にはいると思うの。でも、それだけを手かがりに旅に出たものだから、三年もかえってこないって、心配している人もいるわ」
「ほんとうに…」
つい苦笑いになる。
「しょうのない人なんだから」
「でも、ここにいるのね。私が、教えてあげる」
「できるの?」
「できるわよ」
サラはそう言った。その頃から、砂漠の夜の青はだんだん薄くなって、サラの体も、急に薄れて行くようだった。
「きっとよ、きっと、教えてあげてね」
「うん」
日の出と一緒に、サラの体は消えた。
エーギルの世界に帰るのがこんなに惜しいと思ったことはない。
サラは、私がここにいることを、あの人にちゃんと教えてくれたかしら。
そんな事を思うと、この体の側から離れることができなかった。
どれだけ時間が過ぎたかしら。
この存在を保つために、しょうがなく、エーギルの世界にいて帰ってきた町には、不思議な事が起こっていた。
枯れていたとばかり思っていたオアシスに、水が溜まり始めていたのだ。そして、その傍らに、私を待っていたかのように、翡翠の竜がいる。
「これは、どういうこと?」
「ロプトウスの一時的な消滅によって、砂漠が浄化をはじめたのだろう」
竜はそう言った。
「オアシスは、砂漠なりのささやかな恵みだ。ロプトウスの邪気に敏感であったとしても、不思議ではない」
「そんなものなの」
「いずれ、この町にも人が戻るであろう。そうすれば、お前が元に戻る何かの方法も見つかろう」
竜がそう言ったのに、私はつい笑ってしまった。
「もしかしてあなた、それを言いにここまできたの?」
「そうだが」
「心配してくれてありがとう。でも私、もう大丈夫」
「どういうことだ」
竜は言ってから、思い出したように
「そうか、あの騎士が、お前の元に近づきつつあるということだな」
「そう」
「なるほど。では私がこれ以上の気を揉む必要はないか」
「そういうこと」
「それならば、私もただの飛竜となろう。新しいダインを、いずれ我は背に乗せようからな」
竜は、雰囲気だけでくつくつと笑ったようだった。
「しばしば出会うことになるだろう。我の正体は、他言は無用に願うぞ」
「ええ」
竜は翼を広げ、二三度大きく羽ばたいて、そのまま、トラキアの方に飛び去って行った。
私は泉を見た。砂漠がもたらす、ささやかな恵み…か。手を差し伸べても、水に触れる事はできないけれど、そのひやりとした感覚は、長い旅をした人には、確かに、何よりの安心になるだろう。
その人物が、ふらりとこの町に入ってきたのは、それからほどない、ある夕方の事だった。
何かに導かれるように入ってきて、見つけた泉に駆け寄るようにして、乾ききった体を潤している。
水があってよかったわね、そうでなかったら、あなたは砂漠の中で逃げ水を錯覚したのよ、きっと。
それにしても、不思議なこと。この人は、どうして一人なのかしら。一人で砂漠を行くなんて、もしオアシスを見失ったら、そのまま天国への旅になることを、知らないのかしら。ああでも、砂漠の恐さを知らないで、一人で砂漠に入ってしまったお馬鹿さんがここに一人、いましたっけね。
日の暮れた砂漠は、日の光のもたらす熱をすぐに解き放って、急に冷える。たどり着いた人は、その寒さから隠れるように、私のいる建物の中に入って行った。
石でできた建物は、まだ少し暖かくて、その人は安心したように、荷物の中からカンテラを取り出し、明かりをつける。
私はそれを、体の側でじっと見ていた。
でも。
カンテラの光に、浮かび上がった顔は。
「!」
私の声が人に聞えるようになっていたら、私はきっとその声で、この人を驚かせていたかもしれない。でも私は、声を出さずにはいられなかった。だって、その人は、私が迎えに来て欲しい人に間違いはなかったのだもの。
あの人はそのうち、私を見つけるわ。私は、見えるわけではないのに、物陰に隠れるようにして、カンテラの明かりが私をいつ見つけ出すのか、それを待った。彼は、カンテラを持って、建物の中を見て回り始める。そして、明かりは、大きく揺れて、そこで止まった。
「…王女」
そう言う声は、昔の響きそのままで、私の体を震わせる。
「こんな所に…」
そして、石の私の頬に触れてくれる。少ない言葉だけれど、この人の中では、沢山の言葉があふれてるに違いない。この人のもつエーギルが、私を見つけた喜びが、まるで愛撫でもするように、私のエーギルと触れ合ってくる。
「…ああ、このお姿では、容易によそにおいでになることもできませんね…
ですが、ミーズの城でお見せくださった、貴女のお姿も、また真実のお姿なのですよね?」
その声が、涙を含んでいた。
「それとも、これは幻ですか。
やみくもに砂漠に入り、道を失った私の、今際のきわに見せられた、はかない幻なのですか。
…しかしこれが幻というならば、私は喜んで、その幻と共に、砂の中に乾いて行きましょう…」
泣き崩れたようだった。その体に、私が入っていれば、指の一本も動かせれば、せめてまぶたさえでも開けられたら。
変ね、エーギルの私も、涙を流すものなのかしら。
水を取り戻したオアシスに、小さい命が増え始める。この間までは聞えもしなかった、小さな虫の声が、しんとした建物の中にかすかに響く。
彼は、泣き崩れたまま、旅の疲れが襲ったのだろう、眠ってしまったようだった。
でも、ランタンの明かりが揺れるのに、薄く目を覚ましたようだった。建物には入り口はあっても、扉はない。冷やされた空気が、忍び寄るように、建物の床に広がっているのだ。
今ならできる。彼の体に収まっているエーギルに、今ならふれることができる。私は、ランタンを引き寄せようとした手に、自分の手を触れ合わせた。
「!」
彼の目がはっきり開く。ここに、自分以外の者がいることに、驚いたのだろう、無理もない。
「びっくりした?」
と尋ねると、彼はがばりと身をもたげて、
「…私は、やはり幻を見ているのだろうか」
と呟いた。
「幻じゃないわ。説明するのは難しいけれども、あなたがここで見たもの全ては、全て本物よ」
「では、貴女も、…幻ではなく?」
「ええ」
彼は、にわかには信じられないようだった。疑り深いのは前からだから、私はこの人が納得できるまで、何も言わなかった。
「…道を見失い…もうダメだと思った時…蝶が一匹…私を…ここに導いた…
この町は異常なほどに静かで…何故この町を誰も知らないのかと思い…しかし、旅に疲れていた私は、体が求めるままに、ここを一晩の宿と思い…
その夢の中で、私は探し続けている王女を見いだした幻を…見てでもいるのだろうか…」
「夢でも幻でも全然かまわなくてよ」
私は、彼の呟きに、一言だけ返した。
「目が覚めれば、全部わかるわ、…全部」
また、涙を落とし始めた彼の、旅やつれした顔に、私は触れた。
来し方を話すうちに、私は、今が、ターラで別れてちょうど十年なのだと思った。その十年の間に、私が生み育て、あるいは見い出した子供たちは、それぞれ運命の引きあうままに出会い、暗黒神を倒したのだ。そして、大陸には安穏が訪れ、砂漠が恵みを取り戻した。
そういう十年を、私は眠っていたのだ。長いのか、短いのか、それはわからない。でも、こうしていられる時間がきたことで、そんな事などもうどうでもよくなった。
「…天罰を受けそうな言葉ですが」
「なに?」
「私は、なぜか感謝をしている」
「誰に? 何を?」
「貴女を、最も若く、お美しい時間で留めておいたこの魔法に」
「まあ、そんなことを…」
私はくすりと笑った。
「サラが蝶であなたを導いてくれなかったら、私を見つけることなど到底できなかったあなたでしょうのに」
「かもしれません」
彼も、自嘲するように、少し苦笑いをした。
「しかし、そんな事は今どうでもいいのです。
貴女がここにいらっしゃる。それはおそらく夢ではなく事実で、目を覚ましたら、私は、貴女をここからどうやってしかるべき場所にお連れしようか、嬉しい悩みに頭を悩ますような気がするのです」
「そうね…どこに連れていってもらえるの?」
建物の外が、明るくなり始めていた。天上に開けられた、明かりとりの窓が、私を見つめている、その青と同じ色になる。
「…ノディオンは、いかがですか?」
「ずいぶん遠いのね」
「そこがよいのです。貴女と再会したい子供たちは、全てそこにいるのですよ」
「そうなの…みんな、大きくなったでしょうね」
「ちゃんと成人しましたよ…変わりように、きっと驚かれましょう」
「ええ、楽しみにしているわ」
身を寄せて、私にもたれるようにしていた彼は、私の体をすうっとすり抜けるようにして、床に伏せ、深い眠りに落ちていた。
ノディオン。
あなたにしては、粋な場所を選んでくれたこと。
私とあなたが出会った、あの白い、お姫様のように綺麗なお城に、私を帰してくれるなんて。
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