back

 ザクソンをおちつけて、シレジアの内紛が沈静の方向になることをご確認されたシグルド様は、今まで従ってこられた方々を集め、シレジアを脱し、グランベルとの対話に踏み切ることを決定された。
 内紛が鎮まるのとほぼ同時に、グランベルの北方と接する辺境リューベックがグランベル軍に制圧されたのだ。
「私達が、これ以上シレジアにいると、内紛で疲弊したシレジア国内が、更なる疲弊をこうむることは、想像に難くない。
 それに、リューベックはシレジアの領土、それを制圧したということは、シレジアにしては遺憾なことだ、その奪還をもって、最大の報恩としたい。
 異存はないな」
シグルド様のお言葉に、みな一様に首を縦に振られる。シグルド様は、それを一瞥し、それからことさらに
「レックス」
と、そのほうを見やられた。
「制圧されたリューベックには、ランゴバルト卿ご本人がおられるようだ。戻るなら今のうちだぞ。
 戻らないというのなら、最悪の場合も考えてほしい」
「いまさらどんな顔で帰れますか」
レックスは一度はっ、と短く笑った。
「一度オヤジとは、白黒つけたかったんですよ。むしろ向こうから出てきてくれて、俺にとってはありがたいぐらいですよ」
「それと、兄上のダナン公子が、残留部隊としてイザークを管理しているようだ。いずれ、そこに国を建国するようなことも聞いているが?」
「関係ない」
レックスの隣で話を神妙に聞いていたアイラの返答はどこまでも澄んで、一片の揺らぎもなかった。
「シャナンと神剣のあるところがイザークだ」
「…そうか」
シグルド様は深くため息をつかれた。
「覚悟がすんでいるというなら、私はもう何も言わない。
 さあ、朗報を一つ報告しよう」
朗報、と聞いて、場がざわめく。
「先日、キュアンから、援軍をつれて戻れそうだと連絡が来た。正確に時期はいつとはいえないようだが、今度はランスリッターを動かせそうだと」
喚声ともどよめきともつかないざわめきがまだ、場では続いている。
 援軍があるのは嬉しいことだ。でも私は奇妙な違和感を覚えた。ヴェルダン戦のときは、慎重に、ランスリッターが動くと事態が重くなりすぎると仰ったというキュアン様が、何故今度はランスリッターを出すと?
 その疑問を口に出す雰囲気ではなかった。場は、帰国できるかもしれない期待と、援軍の期待とが相まって、異様な高揚感をかもし出している。シグルド様は、それを一度落ち着けられた。
「しかし、油断は出来ない。確かに彼は援軍を出すといったが、それがいつになるか分からない以上、我々は一兵の追加もなしに戦わないといけないのだ。
 命は大切にするように。以上」
シグルド様は軍議を切り上げられた。将校達が、ざわめきながら帰るのを、私は最後に出ようとそれを見送っていたら、シグルド様が立ち止まられて、
「今回は、頼むから無茶はしないでくれよ」
と仰った。内紛のときのことを仰っているの違いない。でも、あのころと今と、私はあまりにも変わりすぎている。
「はい。もうこのお腹では何も出来ません。ここでお子守の練習をいたしますわ」
と返すと、
「ははは」
とシグルド様は小さく笑われた。それから
「かわいらしい人はどんな姿もかわいらしいな。ディアドラを思い出すよ。
 エルトも、こんな姿を見たかったろうに」
「…シグルド様…」
少し眉を曇らせたシグルド様に、私は何も返せなかった。
「いままで、八方手を尽くしたのだよ。それでも手がかりが何もつかめないとなると、残るはバーハラしかない。
 アズムール王に直訴して、もっと大規模に捜索していただくよりない。
 ディアドラ…どこか無事であればいいのだがな」
「そうですね」
シグルド様は、一度がっくりと首をうなだれられた。でも、すぐ顔を上げなおされて、
「ディアドラに、セリスをもう一度抱かせてあげるまで、私はへこたれるわけにはいかないんだ。
 君も、体は大切にしてほしい。どんなときでも、子供が生まれてくるというのは、佳いことだ」
「ありがとうございます」
「キュアン達が早く帰ってきてくれればいいんだがな…
 君も、気になるだろうが、待っていてほしい」
「はい」
シグルド様は、私の横を通り過ぎながら、ぽん、と私の肩を叩かれてゆかれた。そのお背中に、…ノディオンを出た日の兄と、同じような、そんな悲壮な雰囲気が見えた。

 シレジアの夏は、日差しがあっても、過ごしやすい。
 ザクソン城の中庭では、子供達を遊ばせていた。セイレーンから移られたお医者様は、よいお産のためには、と、私に散歩を勧めてくださったので、時々、その庭をゆっくりと歩く。
 一応、補給についての差配を任されていたから、戦端を開かれてから、情報がいろいろと、私の耳に入ってくる。
 一番びっくりしたのが、フュリーが懐妊を隠していたという事実だ。話によれば、私と半年も違わないらしい。でも私と違って、シレジアにとっては一大事だ。シレジアの本城にうつされて、横のものを縦にもしない大事のとりようらしい。でも、そうなるまで戦うのがシレジア気質なのか、それとも彼女の性格なのか…それは分からない。
 中庭にぽつぽつと置いてある屋外用の椅子の一つに、私は連れていたメイドの助けを借りて座った。そこからは、ちょうど、子供達が、乳母やメイドたちを相手に他愛なく遊んでいる姿がよく見えた。
 セリス様は、一番お年かさでいらっしゃるからすぐ分かる。ほとんど年頃が変わらなくて、セリス様のお相手が出来ているのは、たぶんエーディン様のお子様。ラクチェとスカサハと言ったかしら、どちらがどちらか私には分からないけど、どちらもアイラ譲りの黒髪が綺麗…そう思いながらいると、ぐにゅりと、自分の中で子供が動く。さすがに窮屈になってきたらしい、それでも動くときははっきりと動く。
「早く仲間に入りたい?」
私は子供に話しかけながら、さっき蹴られた場所を手でさする。
「でもまだ出てきてはダメなのよ。もう少し、お母様の中にいなさい、ね?」
そうしながらいると、いつの間にか、セリス様が私の前にいらした。
「あら、セリス様」
セリス様は、私を見て、にっこりと微笑んでおられる。
「おなか、ぽんぽん」
と、私のお腹を手でさすってくださる。そのお顔立ちは、シグルド様よりはむしろ、奥様のほうに似ていらっしゃるかもしれない。シグルド様が、奥様を忘れかねておられるのも、なんとなくわかる気がした。
「あたたん、いゆの?」
体から首を大仰に傾げられながら、セリス様がお尋ねになる。私は「はい」と答えて、
「お友達が増えますよ」
と言った。
「ともだち? セリスの、ともだち?」
「はい」
すると、セリスさまは、私のお腹に向かって声を上げられる。
「ともだち、でてこーい、セリスとあそぼー」
小さなお子様のなさることは予測が出来ない。私が目を丸くしていると、
「セリス様!」
とセリス様の乳母らしき女性が来て、セリス様を抱き上げられた。
「大事ございませんか」
と半ばうろたえているのを、私は
「大丈夫大丈夫」
となだめる。
「この子に早く出てきて遊ぼう、って、誘ってくださったのですよね、セリス様」
「うん」
乳母の腕の中で、セリス様はこっこくりとうなずかれる。
「まあ」
乳母は苦笑いをした。左右を支えられて、散歩の続きをしようと立ち上がったとき、私の中で、ぱつっと、緊張のはじけたような音がした。
 立ち上がっても、歩けない私を、乳母達やメイドたちが怪訝そうに見ている。そのうち一人が
「いけない!」
と声を上げて、その上で子供達を遊ばせていたキルトの敷物を広げて、私の腰の辺りにまきつけてくる。
「どうしちゃったの、私」
「お腹の中で、お子様を守っている水が、少し漏れてまいりましたわ。
 お産が始まってしまうかもしれません、お部屋にお戻りください」
「え、え?」
事態を咀嚼しようとした私の体が、突然ぐっと緊張する。
「!」
メイドたちはさらに浮き足立った。
「どなたか、どなたか!
「姫様をお部屋に!」
「お医者様を!」

 もっと涼しくなってからだと思っていた。一ヶ月も早い。でも、急くように、この子は外に出たがっている。
 無我夢中だった。落ち着けたと思ったらやってくるお腹の痛みに、もう昼も夜も分からない。
 それでも、
「さ、もうお力はいれずに」
と、手を握っていてくれたメイドに言われて、私ははぁ、と脱力する。
 産声が上がった。
「おめでとうございます、男のお子様ですよ」
と言われ、私はなんと答えただろうか、覚えてない。ただただ脱力感と、達成感だけがあって、私はただ朦朧と、その後の処置を受け、そうしながら眠っていた。

 生まれた子供には、すぐ乳母がついて、私がやることは何もない。ただ横になっているのも退屈で、起き上がろうとすると、子供がいたことに慣れていた体は、急に身軽になりすぎたのか、壁を伝いでもしないと上手く歩けない。
 それでも、私が、続きになっている子供の部屋に来たので、乳母もメイドもびっくりした顔で私を見た。
「いけません姫様、まだお休みになっていてください」
「子供の顔が、見たくて」
「仰っていただければお連れいたしましたのに」
と乳母が言って、私はそのままもとの寝台に戻される。
「抱っこしていい?」
と尋ねてみる。
「はい、よろしゅうございますよ」
乳母はよく分かっている人のようで、あれこれとやり方を教えてくれる。私は、恐る恐る、と言う言葉がふさわしいしぐさで、自分の子供を抱いた。
 子供は、私が抱きなれていないのを肌で感じるのか、不安そうに身じろぎしている。アレスだって、こんなに小さいころを、抱いたこともない。柔らかい布団の上でも、落としてしまったらどうにかなりそう。その腕の中の子供が、何か小さな声を上げはじめる。
「ど、どうしたのかしら」
とうろたえる私に、乳母はさして驚くでもなく
「お腹がすいたのかも知れませんわねぇ、先にお乳を差し上げてそろそろ次をと思っておりましたし」
と言った。そしてひらめいたように、
「準備をいたさせますから、お乳を差し上げてくださいまし、お母様から出る初めてのお乳は、子供を丈夫にさせるといいますのよ」
「そうなの」
驚くことばかりだ。さして大きくもなく、かといって小さくもなく、敢えて言えばあの人の手にぴったりと収まってちょうどよかった、ぐらいの私の胸は、子供を育てるためのものに変貌しているのだ。
 準備をしてもらって、裸の胸に、子供の顔を寄せさせると、子供ははわはわと口を開き、やがて、探し当てた私の胸先に吸い付く。
「あ」
これが生まれて数日の子供が出す力かと思うような力だ。吸わせていない片方がちりちりと痛くなる。でも、子供をゆっくりと観察できる。
 髪は、私と同じ金髪になりそうだ。腕に小さく見えるあざは、もしかしたらみしるしかしら。あとは、あの人に似ていそうなところは、見られない。聖戦士の血脈を持つと、自然と似通うようなものなんだろうか。なんだか、拍子抜けした。
「男の子、でしたっけ」
と呟くと、見守っている乳母が
「そうですよ」
という。
「お着替えもご覧になりますか?」
と言うので、
「わざわざ、いいわ」
と答えると、続きの部屋から小さく笑い声がした。

 私の両方の胸から、自分なりの量を飲んだのだろう。子供はおとなしくなった。私は、隣のゆりかごではなく、自分の寝台に寝かせてほしいというと、そういうようにしてくれる。たぶん頭の中では、みんな「奇特なことを考える人だ」と思っているかもしれない。
 子供は、自分の時間で生きている。もじもじとした身じろぎが、この子がお腹の中にいたころを思い出される。きっと、早く出て、思い切り動きたかったのね。
 眠りたいから、と、乳母達を隣の部屋に遠ざけて、私は枕の下に手をさしやる。少しよれた封筒を取り出して、中を読む。もうソラで暗誦できるほどになってしまって、折り目が少し弱くなってきているけど、この子が出てくるまでのこの何ヶ月と言うもの、この手紙が何度私の心を支えてくれたことだろう。私の涙で滲んでしまった彼の筆跡も、今は懐かしいばかり。
 でも、懐かしがるために開けたのではなく、その中に書いてあることが、必要なのだ。
「男の子だったら、…デルムッド、か」
と私は呟いた。もし女の子だったらということを考えて、何個か名前を考えていたけれど、それはまた後で、ということになりそうだ。
 おそらく、今はシレジアから、城詰めの司祭様あたりが、洗礼式のためにザクソンに急いでいるだろう。何せ、一ヶ月も、この子…デルムッドは早く生まれてしまったのだから。
「お母様を病気のようにさせたり、一ヶ月も早く生まれてきたりして、あなた将来、女の子泣かせになるかもね、デルムッド」
私はそう、隣に声をかけていた。
「お父様の譲りの何か、見せたいものはないの? …ああ、『男の子のであること』はもらってきたわね、でも、それだけ?」
顔を覗き込んで、思わず、人形でも扱うように、そのほほをつついてみたりした。何かの気配か、それともかすかにお乳のにおいが残っているのか、デルムッドは少し顔を私のほうにむけ、うっすらと目を開いた。
「あ」
その目はすぐに閉じてしまったけれど、私がそれを見間違えることはない。あの人は、私とこの子に、私が一番ほしいものを与えてくれた。
 夜明けの青の目。私の大好きな、あの青い目。
「お母様はそれを見たかったの…恥ずかしがり屋さん」
言いながら、私は、涙が落ちそうになるのを止められなかった。
 私は、ちゃんと、あの人の子供を産めたんだ。新しい家族になれるんだ。
「ありがとう…デルムッド」

 産褥から早く離れられるにはしたほうがいいということを、私は片端から試した。もちろん、安静がいいといわれている間は、私は懸命に安静にした。
 その間に、リューベックを奪還し、ドズル公は処断されたということを聞いた。双子の祖父を打たねばならなかった二人の心境は、察することも出来なくて、平和であれば、これほどの悶着にはならなくて、孫がカスガイで存外丸く収まったかも、と、岡目八目なことを考えてみる。
 でも何より、私が「急いで」いたのは、そのリューベックに、レンスターからの援軍が近々到着しそうだという知らせがあったからだ。
 お医者様から、待ち遠しかったお許しをいただいて、私はザクソンを飛び出す。デルムッドはさすがに残していかざるを得なかったけど、援軍でしばらくここにいるなら、ゆっくりあわせてあげる機会もあるだろう。
 それなのに、入ったリューベック城は、まるで制圧されたような暗澹たる雰囲気に包まれていた。
 どなたか、討ち死にでもなされたのかしら。不安に思いながら案内を待っていると、オイフェが、真っ青な顔で
「ご案内します」
と出てきた。そのオイフェの後を追いながら、
「一体この雰囲気は何? レンスター軍の姿もないようだし、…遅れる話でも?」
と尋ねる。オイフェは立ち止まって、言いにくそうに、
「レンスター軍のことなのですが」
と言った。
「キュアン殿下のお手紙には、イード砂漠を縦断する最短の経路をとる旨あったのですが、予定の期日になってもいらっしゃる気配がなくて、天馬騎士の皆さんにお願いして、探索に出ていただいたのです。
 そうしたら」
「そうしたら?」
先を促そうとすると、オイフェが涙目になってくる。
「…何か、あったのね」
私の胸が、ズキン、と音を立てた。
「リューベックから天馬で半日ほどの距離に、戦闘の跡があって…残されていた旗から、それがレンスター軍のものであることを確認しました」
「えっ?」
「人を出させて付近を捜索させたところ、ランスリッターらしき騎士の方が最低でも十数名、それと…」
「…」
「両殿下の、ご遺体が」
出来る限り収容して、レンスターに送って差し上げたところなんです。と、オイフェは最後は、やっぱり涙を止められず、そう言った。
「しかも、戦闘のあと砂嵐が起こったようで、もしかしたら、まだ捜索しきれていない遺体があるかもしれません。
 でも、リューベックが突然トラキア軍の竜騎士に襲われ、それ以上の捜索ができなくて」
つまり、そのトラキア軍を撃退した後の城を、私は訪ねていたわけだ、精神的にも、肉体的にも疲弊していたのだ、城の雰囲気が真っ暗なのも、納得した。
「シグルド様は?」
「先ほどまで、お休みでした。貴女が来たことを申し上げたら、話があると起き上がられたのですが…
 私は、もうしばらくお休みになっていただきたいのです」
オイフェも、私よりすっかり背が大きくなっているのに、それでも子供みたいに涙を落としながら言う。
「じゃあ、そうして差し上げて。私も、休むわ。あまりに急いできて、少し疲れたの」
そういう私の声も、震えていた。
「でもオイフェ、教えてほしいことがあるの」
「はい」
「収容された遺体は、お二人と、ランスリッター…だけ?」
オイフェは、いかにも答えにくそうな顔をした。
「両殿下は、お衣装からそうと判断できました。でも、残りの方々は… 砂嵐の後らしくて、正確な人数すらわからないのです。
 正式な出兵であれば、レンスターに出撃命令書の写しが残っていると思うのです。ですが、トラキア軍の襲来で、身元の確認が困難なまま、遺体の損傷がこれ以上ひどくならないうちにお送りしてしまったので…」
そのオイフェのセリフを、どこまで聞いていただろう。私は、その場で昏倒したらしい。一両日ばかり、記憶がない。


next
home