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 その雰囲気に促されるままに、私達は寝台に上がっていた。
 おそらくこれが、訳知り顔ながら私に何も教えてくれなかった人たちが期待していた結果なのだろうと思うと、そのツボにはまってしまった自分が少し悔しい気分がしないでもない。
 けれど、今の私自身が、その流れに逆らえないのだから仕方がない。彼も、多分同じ心境なんだろう。
 ここにいる大半の時間、数歩とはなれない距離にあった二人の間で、何かないわけがない。だから期待されていたのかもしれない。
 でも彼は、私があっけにとられてしまうほど、何も知らなかった。自分の、本能的な体の変化にさえ、戸惑っているのだ。
 正直、もどかしかった。私は、シルベールでの時間を、極力思い出さないようにしていた。恨みさえした。あの時間がなかったら、私も一緒に、悩んで、困って、目の前の階段を、二人で一歩ずつ上って行けるのに。それに、あれこれと指図なんて出来るわけがない。慣れた女に思われて、この時間を意味ある時間にしようとしているこの人に、失望してもらいたくないもの。
 そういうことを考えてしまうと、私の体は急に、熱を冷ましてしまう。申し訳なくて、脱ぎかけの衣装を胸元に寄せて、私は彼に背を向けてしまう。
 彼は、戸惑ったままの気配で、私にわずかににじり寄り
「お怪我でも、されましたか」
と、背中の一点にふれた。瞬間、びりっと、体中の神経が逆撫でされたような気持ちになる。
「怪我? …そんなところに怪我なんて、…あ」
彼の指が、それを丁寧になぞる。そこは、…ヘズルのみしるし。私を未来を本来は縛るはずだった、今は役に立たない枷。
 体に熱が戻ってくる。指で触れられているだけなのに、まるで、全身をなぶられたよう。声も出せない。シルベールの時間が、吹き飛んでしまう。
「お苦しいのですか?」
彼の声が、耳元で低く聞こえた。私は、その声に、ようよう、これだけしか答えられなかった。
「そこは…触っちゃ…だめ…」

 武器の使い方には、教科書もあるし、定石と言うものもある。でも、寝台の中には、その教科書も、定石もない。私は、彼のされるままにされた。
 彼は、自分の高ぶりを、どこに納めるかも分からない。私の上を幾度か上滑りした。私は、それがかわいそうになって、その抜き身の刃を収めるべき鞘へ導こうとそれに触れた。初めてだけど…決心したんだもの。
 でも瞬間。刃は一瞬でその勢いをうしなってしまった。
「あ」
ほとんど二人同時に声を上げていた。その中身は、それぞれ違うけれども。私の手には、その熱さの名残がとろりと残る。
 薄暗く明かりを落とした中でも、彼の顔は明らかに高潮して見えた。合わせた肌越しに、鼓動が伝わってくる。目を合わせようとしない彼に
「…はずかしい?」
と聞いてみた。彼は以外に素直に、私に向き直って
「…はい」
と答えた。
「申し訳ありません、何も知らなくて…」
「ううん」
私は小さくかぶりをふった。
「何も知らないのが普通なんだから…落ち込んだりしないで、ね」
「…面目ありません」
一度体を離し、寝台に腰掛けた彼は、いかにもしんなりとして、心身の格闘にいかに疲れたかを体全体に滲ませていた。その背中に、私はぴたりと体をそわせる。
「それに、ほら、一つわかったじゃない。こうして触れ合ってるだけで、すごく安心するって」
「安心、ですか」
「そうよ、ほら」
私は彼の手をとって、その胸の辺りに触れさせた。
「さっきまで、すごくどきどきしていたのに、今はなんでもない」
彼は、赤みの差した顔のままで、しばらく思案顔をしていた。が、私の腕をつかみなおすと、私は寝台の面に転がされていた。
「あ」
「い、今は、つたないところも多々あるかとは思いますが」
彼は、一息にそういった。
「この道も学びますから。きっと、貴女にご満足いただけるように」
今度は、私が赤くなる番だ。
「それ、どういうことか、…わかる?」
「とは」
聞き返されても、私には答えられなかった。こういう状況で私が満足するというのは…つまり…そういうことだ。それにそんな満足なんて、経験したこともない。
「ううん…なんでもない。
 でも、一つだけ約束」
「はい」
「人から話を聞くことは大いに結構、でも、聞いたことを試すのは、私とじゃなきゃ、ダメよ。
 絶対よ」
「わかりました」
こんな状況なのに、彼の顔は生真面目だ。でもその生真面目さが、今はたまらなく可愛い。

 いつもなら、ぼんやりと空を見上げて、一瞬の青を楽しむ明け方も、今日だけは特別に思えてならなかった。
 体に穴が開いていたような、あの気持ちはどこに行ってしまったのだろう。感情のままに動く私を笑っていた別の私も、もう、どこにもいない。
 生まれ変わった、と言うのは、少し大げさかも知れない。完全に結ばれたわけじゃないのに。でも、そういいきってしまっていいほど、昨日までの私が別人みたいに思えた。
「前線に、戻らないとね」
そう言った。そうしないといけない気がしてきた。
「戻られるのですか」
彼はまだ心配そうだ。
「大丈夫、ほかの武器や魔法の訓練もしたいし、私がもどれば、前線で休める人が少しでも増えるわ」
「そうですね」
彼は納得した顔をして起き上がった。
「で、出発はいつ?」
「今日」
私の返答に、彼は少し面食らったようだった。
「今日、ですか」
「ええ」
彼はしばらく思案顔をしていた。が、すぐ顔を上げ、
「わかりました、すぐ準備させましょう」
といい、飛び降りるような勢いで寝台から離れた。
「王女もそのおつもりで、ご準備ください」
「わかってるわよ」
彼は、抜け道を通ろうとする。
「ほらほら」
「はい?」
「ちゃんと扉から帰って。
 それから、今日から、その制服をきるのよ、いいこと?」

 今日いきなり出発と朝になって聞かされて、おじい様もさすがに驚いていらした。
「急なんだね」
と仰るのに
「はい、よく話し合って決めました」
と言うと、おじい様は
「そうか、それなら仕方ないね」
と、得心したようお顔で仰った。
「会えないわけではない。より折があったら、戻ってきなさい」
「はい」
ばあやは、もう涙声になり始めている。
「もう少しここにいた下さればよろしいのに、もういってしまわれるのですか」
「ごめんなさいばあや、私、いかなくてはいけないの」
「姫様…」
「会いに戻ってくるから、ね」
「きっとですよ、きっとでございますよ」
おじい様とばあやと、何度も別れの挨拶をして、私は馬の上になる。
「行って来ます」
私は、時々振り返りながら、二人の姿が見えなくなるまで、手を振った。

 マディノの城は、まだ何の手も出されていなかった。遠くに、ぼんやりと、包囲しているグランベル軍らしき天幕の群れが見えて、私は少し恐ろしい。
 彼は、出迎えてくださったキュアン様と一緒に、何か急ぎの話でもあるのだろう、先に行ってしまった。私は、その後からはいって、あてもなく城の中に入る。
 マディノの城の中を、知らないわけじゃない。お母様に連れられて、何度か入ったことはあるから。
 軍議はどこか広い部屋で行われているのだろう。でも私は、そこに顔を出したくなかった。ここに追い込んでしまったのは私のようなものだし、その上いまの私にできることなんて、きっと何もない。
 ぼんやりと廊下に立ち尽くしてでもいたのだろう。ぽん、と背中を叩かれて、
「きゃっ」
声を上げてしまった。振り返ると、
「お帰り、姫様」
シルヴィアがいた。後営で傷病兵を癒していた踊り子の衣装ではなくて、今は町娘のような、かわいらしい服でいる。
「少し、元気になった?」
と聞いてくるので、私は
「ええ。…少し、ね」
と答えた。シルヴィアは
「今、シレジアの人が来てるの」
と言った。
「シレジアから?」
「うん。レヴィンを迎えに来たのかなって、最初思ったけど、そうじゃないみたい。
 フュリーのお姉さんだって。でも、フュリーと全然違う、すごくかっこいい人なの」
「そう」
「姫様は、いかないの?」
「ええ…私が行っても、ややこしくなるだけかな、と思って」
「ふぅん。
 じゃ、あそぼ」
シルヴィアが私の手を引いて、どこかに連れて行こうとする。
「遊ぼうって」
「話したいことも一杯あるんだよ」
 通された部屋は、がらん、としていた。
「あれぇ」
とシルヴィアは拍子抜けした声を上げる。
「さっきまでみんないたのにぃ」
「大丈夫よ、シルヴィ、そんなに気をつかってくれなくても」
「ああ、もしかしたら、みんなアイラ姫様のところかな」
「アイラ、どうかしたの?」
グランベル軍がマディノを包囲してこの方、彼女も緊張が続いたのか、体調がよくないような話を聞いていた。そんなに深刻な病気なのかしら。でもシルヴィアは
「それがね」
と笑顔でいる。
「おめでたなんだって。ね、大事件でしょ」
「えぇ?」
私は思わず、裏返った声を上げていた。私と同じように、父上や兄上が理想と言っていたアイラが、一体何故どうして。
「しかも相手は聞いてびっくり」
「誰?」
「レックス」
「えぇ?」
私は二度裏返った声を上げた。レックスって、あの、シグルドさまについていらしたグランベルの公子さま。二人のつながりが分からない。もっとも、つながりがわからないから大事件なわけで…
「でも、あの二人、イザーク侵攻の関係で、すごく仲が悪かったような…」
私が知っている限りの記憶でそうつぶやくと、
「そこが、恋の神様のいたずらなのよ」
シルヴィアはそう言って、ウィンクをした。そこに
「シルヴィ、いたんだ」
とも聞いたことのない声がした。
「あ、ティルテュ様」
入ってきた人影は、銀色の髪を軽く結い上げていて、近づいてくるたびに、その瞳が綺麗な金色をしているのがわかる。
「その方は誰?」
ほとんど同時に、私とその方はシルヴィアに聞いていた。シルヴィアは、その方に私を紹介し、私には、
「えっとね、この方は、ティルテュ様。神父様と一緒に来てくれたの」
と言う。そういわれてすぐ、「あ」と私は思い当たるフシがあった。でも、言わないでおいた。でもティルテュ…そのまま呼びでいいといわれたから…はあっさりと
「はた迷惑な父親にあいそつかした家出娘」
と自分をそう言った。でもすぐに
「…の、つもりなんだけど」
と、まるで些細な失敗をとがめられたような苦笑いをする。
「時期がわるくって」
きっと、包囲しているフリージ軍の関係者と思われているのかもしれないと思った。でも、ティルテュの目は、裏のない綺麗な金色で、光の入り具合で、時々綺麗な緑になる。こんな綺麗な目をした人が、何かと結託しているなんて、私は到底思えなかった。
「大丈夫。私、全然そんなこと気にしないから」
「ありがとう、お世辞でも嬉しいな」
「お世辞じゃないわよ。それに、私のほうがすごいわよ、アグストリア一つ丸ごとだめにしたんだもの」
テイルテュの目が、くるん、と光った。
「ダメにした…って」
「そんなことないよ姫様」
シルヴィアが横から言った。
「姫様、がんばってたじゃない」
「でも、結局こんなことになっちゃってるでしょ?」
「そ・れ・は、姫様のがんばりを分かってくれなかった人が悪いの」
シルヴィアは一言そう断じて、
「お茶もって来るね」
と言って、部屋を飛び出していった。
「なんか、二人とも、複雑な事情があるみたいね」
ティルテュが声をひそめた。私も顔を寄せて
「そうね」
と笑った。ティルテュは、どこから持ってきたのか、側の机にチェス盤を置いて、駒を並べ始める。
「最近覚えたんだ。やる?」
といわれて、私も特に断る理由もなかったので
「いいわよ、あまり強くないけど」
と答えて、椅子を引いた。
「並べ方、これでよかったかな」
「大丈夫と思うわよ、私もこの間教えてもらったばっかりだから、駒の動かし方ぐらいしか分からなくて」
「じゃあ、私より少し強いかなぁ、私、まだ動かし方もあんまりよく分からないんだ。アゼルも、他のみんなも、強すぎて全然だめ」
そういって、私達は、白黒市松模様の盤をじっと眺める。とにかく分からないままに、駒を動かす。その動かし方も、自分に有利なのか不利なのか、全然わからない。
 そのうちに、足音がして、
「ティルテュ、ここにいたんだ」
と声がした
「あ、アゼル」
「僕のチェス盤、黙って持ち出したね」
「だってぇ」
「まだ何にもわかってないくせに」
アゼル様がそう仰りながら、ティルテュの後ろ側に回る。私の後ろにも、いつの間にか彼がいて
「ひとまず、伺ってきたことの報告を」
と言った。お茶のセットを持ってきたシルヴィアが
「あれぇ、カップが足りなくなっちゃった」
と言って、また部屋を飛び出していった。


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