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終わりの始まり


 角砂糖を、グラスの水の中に落としたといった風情だ。  ぼんやりと浮かぶ、崩れてゆく冥 界。 
 神話の曰く、冥界から、地上まで、七日七晩の道のり。 
 その道のりを、沙織達は一筋の光となって、翔けていた。 
 沙織達五人に支えられる星矢に、生きた感じはしない。 
 沙織は、その頬に自分の頬を寄せて瞳を潤ませていた。 
「お願い星矢、目を開けて。…あなたを待っているひとがいっぱいいるの。それに、わたし、あ なたに何のお礼も言ってない」 
「…」 
その他の面々も、ぐったりとした首魁の表情を眺めている。 

 クレアが、エメラルドの額飾りをふと揺らして、やはり涙に濡れた金色の瞳を開いた。 
「何かが、登ってきます。…女神?」 
クレアは、かたわらのアリアドネを仰いだ。その地上の小宇宙の変化は、アリアドネとて感じ ていないわけではない。アリアドネはうなずく。 
「女神が、凱旋なさるわ」 
「ええ。でも」 
クレアは視線を落とした。 

 「この赤い光がいやに鬱陶しい」 
先頭を翔ける一輝が呟いた。彼らの回りを、冥界からこぼれ落ちた無数の魂達がとりまく。 ほとんどが、そのはやさについて行けず脱落する中で、赤い光をまとったいくつかの魂だけ が地上に向かう彼らを慕うようについてきていた。 
「?」 
氷河がその一つに手を伸ばそうとして、一瞬その名前と同じグレイシアブルーの瞳の色を変 えた。沙織に黙ってそれを差し出す。沙織も、それを見た。 
 赤い魂は、依然自分が宿っていた器の顔を、表面に浮かせていた。それだけではない。取 り巻く赤い光の一つ一つが、同じようにして、彼らに訴えかけていたのだ。生きる定めを全うさ せよ、と。 
「…!」 
沙織は大きな声を出そうとして口をおさえた。 
「赤い光の魂?」 
そしてその後首をかしげた。 
「そんな話を、いつか老師からうかがったことがあってよ」 
「ええ。…寿命を全うせず命を落とそうとする人間には、赤い光が宿る、と。俺もそう教えをう けました」 
紫龍がわきで冷静に呟く。 
「だとすると、この赤い魂は、寿命を全うしないで死んだ人だってこと?」 
瞬が裏返った声をあげる。 
「そう考えてもいいみたいだな。現に」 
紫龍はほんとうに冷静に、目の前の首魁を指した。星矢の魂、なのだろうか、赤い光が抜け 出ようとしている。 
「だめっ」 
沙織がそれを掴もうとした。だが、星矢の赤い魂は、ニケにぴったりと沿う。 
「!」 
氷河が試しに、手にしていた赤い魂をニケに差し出すと、それもニケに沿い、やがて吸い込 まれた。 
「…蘇生させる必要が、あるってことなのかな…」 
瞬が呆然と呟いた。そこに、であった。 
「うおおお」 
一輝のそんな慟哭のような声がした。 
「兄さん!」 
「一輝!」 
一同が先頭を向く。一輝は今しも、赤い魂を一つ手にとったところだった。 
「沙織さん…」 
一輝が面々を振り向いた。真一文字に結んだ唇を涙に震わせる。 
「早く、地上に…失われた肉体の、再生を…」 
「?」 
沙織は話があまりに決定的なことに首をかしげた。だが、すぐに割り切った顔をした。女神ア テナとしてはなんの感じるところもないが、木石ならぬ人間の心には、思い当たるフシもなくは ない。 
「わかりました」 
沙織はニケを差し出した。一輝の手の中の赤い魂は、はじめためらうようだったが、それでも ニケの中に吸い込まれてゆく。 
「すべての、命を全うしていない魂よ! ここに!」 
ついで沙織はニケをかかげ、こう高く言う。赤い光の奔流がニケに吸い込まれてゆく。 
「さあ、早く地上に戻りましょう。 
 …物語は、これからです」 

 「救われます。血の涙を流していた魂は、帰ってきます」 
クレアがそれだけ言って、泣き崩れた。ヘリオドーラや玉環がそれを支える。 
「ええ、帰ってくるでしょう。…でも」 
 アリアドネは、目に見えず浮かんで来る映像をぶ然と眺めた。 
 心を地上全土に走らせた。沈黙が返る。 
「でも、私は信じてる。 
 神は、真実を御存じなのだから」 

終わりの始まり のおわり。