まえに


 知名の里がまた、秋にあわせて何かを企てはじめた頃。
 宇津山に、疾風彦の姿があった。傍らには、桂子。
 くわしい所以など、話す必要はないだろう。帰るこだまのように、出会うべくして出会った二人は、しかるべくその間柄を親しくしていったわけである。
「戦が、おこりそうだ。手下の風が伝えてきた。今年は宇津山も狙っている」
「え?」
桂子には、戦のなんたるかなど、詳しくはわからない。寄る、桂子が出る時間には、みな戦いをやめて、敵味方もなくやすらう時間なのだから。ただ、疾風彦の深刻な顔が、なにかただならないものを感じさせた。
「疾風彦、あなたも、その戦に出ますのか?」
「ああ。俺は弓の腕前をかわれている。佐田の里を守らなければならない。佐田の里がやぶられなければ宇津の里にまでは来ないだろう」
「戦は、大勢の人が、死ぬのですよね」
「ああ」
「疾風彦、あなたは、死にますか?」
「まさか」
疾風彦は、桂子の憂いを込めた瞳に笑って返す。
「疾風彦は、私の知らないことをたくさん教えてくれました。そのあなたがいなくなることなど、もう私には考えられません。
 できれば…戦などなければいいのに」
疾風彦は、しっとりと濡れたような輝きの桂子の髪にふれた。
「戦がなければいいとは、誰も思うもの。
 しかし、里を守らねば、すべてを奪われてしまう」

 戦が近いこと、それは桂子も、天の神たちの予言めいたうわさ話を伝え聞くことによって、しらないことではなかった。
 そして、風の神がこうともいった。予言には…疾風彦は、この戦を生きて超えられまいと、それが運命と。
 疾風彦はそれを知らない。天に定められたことは、知らせてはならない。父神のいいとがめが胸を射す。
 できれば引き止めたい。桂子は…夕方に、去ってゆくその後ろ姿に何も言えなかった。

 秋の雨、赤いかがり火、物々しい男達。
 疾風彦の姿が、垂れこめた雨の陰の中もかがり火に照らされて、赤く浮かび上がった。その後ろには、東西南北の風がうやうやしく控える。里を守ろうと立ち上がった男達を前に、鋼を叩くような疾風彦の凛とした声が響く。
「敵は知多の里…千早彦。里の実りと、大切なものたちを守る為に立ち上がってくれたこと、感謝したい…」

 桂子が、戦はじまるの知らせを受けたのは、いよいよ天の道を昇ろうかというところだった。
 世を照らす明かりをとり、歩き始めようとしたところに、背後からそっと声がした。
「何も申し上げずとも、お分かりと思います…疾風彦は、この宇津山は守ると、そういっておりました」
 桂子は、そこに立ち止まった。長いこと。
 明かりを元に戻す。左右がふためいた声をあげる。
「桂子様?」
「桂子様!」
「夜はいかが致します、お父神様は」
「今夜は一晩雨がふります、天の世界にこの戦が見えないように」
桂子はそれだけいう。振り返らず、走り出す。

 宇津山から佐田の里までは、娘の脚では歩いてたっぷり半日かかる。まして、黄昏れた暗い道は雨にぬかるんで、天の道と自分の屋敷周りより他に歩いたことのない桂子は、何度も何度もその地面にのめった。

 夜が更けていた。
 ざわめきをわけるように、疾風彦の前に出てきた桂子。雨轟のまみれた衣装と真っ黒の髪。
「桂子、天の道はどうした!」
「疾風彦…まだここにいた…」
桂子は雲間から照る月の光のような、ほんのりとした微笑みを浮かべた後、ぐらっと、雨の中に倒れこんだ。

 桂子は、眠ったまま、宇津山にかえされた。目がさめて桂子は、自分に何も出来ないことを嘆いた。
 しかし、運命の足音は容赦なく…

 桂子がひとしきり、涙を流した後である。先の鏑矢の見せた側の者が、
「どうぞ、お屋敷の外を御覧下さい」
といった。
 見ると、東西南北の風が、霞むようにひざまずいている。
「…」
桂子は、それだけで、運命の遂行されたことを察した。もう涙は出て来なかった。

 風達は、語りはじめた。
 人々の、倒れた体を乗り越えて、疾風彦は千早彦を探そうとしていた。倒す為ではない、和解のためだ。
 なぜこんなことをするのか。知名の里と、手を取り合うことは出来ないのか。
 ひとしく桂子が微笑む人の世の中に、争い等、ふさわしくない。その思いで。
  その目の前に、千早彦がたつ。
「…疾風彦だな」
疾風彦が頷くと、千早彦はそれ以上何も言わず聞かず、疾風彦にむかって手にしていた刀を振り上げた。

 戦は…激しい雨の中、終わった。桂子のことを聞き及んだ千早彦が、仏心を出して、それ以上のことをしなかったからとも、突然の大雨が、奪うべき実りを全て流したからとも聞く。その雨の中にも女の笑い声が聞こえたとか、なんとか。

 桂子は、その夜も、天の道に立っていた。下を見下ろした。背筋が凍る思いがした。
 あの屍の何処に…疾風彦はいるだろうか。
 沢山のことを教えてくれた疾風彦に、何の礼も出来なかった。
「お父様、私は、この人の世界が愛しいのです」
そう、桂子は呟いた。
「私の知らない、多くの心。
 人を疎むことも、人を慕うことも知りません。
 里の人たちは、それを持っています…
 私は。その里の人たちをいつまでも守りたい、その心を聞いていたい…」

 父神は、その時言葉にならなかった桂子の願いを聞き届けた。
 桂子は、いつの間にか、自分のからだから光が出てきているのに気がついた。
 心が高くまでに飛んだ。真下に差し掛かってきた湖に、自分の姿をうつそうとした。
 しかし、見なれた自分の姿はそこにはなかった。
 あるのは、歪みのかけらもない、象牙色の光。

 桂子は月になった。
 桂子の流した涙は無数の星屑になった。
 今も桂子は、その真白い光で夜の世界を照らしている。
 旅を急ぐ者のため、窓辺にやすらうもののため。
 

をはり