しーさん

 離宮の中に、ひしひしと伝わってゆく戦の予感。そういう状況が、伝わってこない龍宮殿ではない。
 しかし、龍宮殿は、不気味なほどに、離宮の動きを伺うだけで、なにもしてこなかった。正確には、未だ手を出すに及ばずと思われていた。離宮の青龍討伐は、圧倒的な勢力をもって、可能なかぎり短期間で済ませてしまわねばならない。それが、市井の民へ
の、自分の求心力になると、娘々はそう計算し、流々と細工をしていたわけである。
 便宜上、故龍王の末子として、世に知られず生まれたかの娃龍公主が、ナテレアサの名家ウィンダランドに輿入れした、その華燭の典は、現地ではそれなりに盛大に執り行われた。大龍神帝国の、いやしくも幼くも王女なら、王室に入っても不思議ではないが、その体裁は、母親が妃として遇されず、また公主も故龍王が認知をせぬまま崩御したにより、娘々の計らいで、瑠威趣龍の預かりにしていた、ということになっていた。事実は、改めてここで述べるまでもない。
 その娃龍公主の輿入れの後見人として、ナ国に赴いてきた瑠威趣龍の報告を聞いて、
娘々も満足そうであった。
「…家長のウィンダランド夫人ネフェレ殿も、私兵の提供については、前向きに検討したいと」
「そうそう、そう来なくてはならぬ」
しかし、それは、身を痛めた我が子の行く末の安泰さにではない。
「何より、これが返しとして、あちら様の壮図に助太刀すれば、妾が今感じている以上の感謝を、きっとあちら様もされようというもの」
「御意、この大龍神帝国の禁軍が助太刀とあれば」
「これ、そう声高く言うものではない」
娘々は、自分用に仕立てられた龍王の衣装をきらびやかにつけ、玉座に当然そうに悠然としなを作ってかけている。
「あちら様の方が恐くはないかえ? 妾はとおきみおやより授かった龍神のちからもさりながら、正宮という地位も幸いして、今ここにある。
 しかし、あちら様は、一介の臣下の身をして帝王を操らんがために軍を出す」
「いずれにしても、力あるものが壮図を抱き、世を制せんとするには、神もこれを助くのは、自然の摂理かと」
「いかにも、妾は龍神ぞえ、助けねばなるまいの」
娘々は低く笑った。
「それとして、娃麗の父としては、娘の輿入れには感慨深いものがあったろうに?」
「は、小公主は燎哲様に似て、晴れやかに可愛らしゅうございました、ご夫君がお年頃になる暁には、よきお話し相手となりましょう」
二人は、互いの「気」を分けた子のことを、他人事のように取り上げた。
 ふと、娘々がはたと膝を打つ。
「彪龍殿」
そして、瑠威趣龍の隣で、酒杯を玩んでいる彪龍に話の水を向けた。
「永寿は息災かえ? 別邸の芙陽も、少しは気が晴れたかえ?」
陰謀には妖艶な笑みを浮かべる娘々も、この時ばかりは心配そうな親の顔だった。彪龍は、娘々の問い掛けに、不自然な一瞬を置いてから、
「…は」
気がついたような返答をした。瑠威趣龍がナ国に赴いている間の債務を、自ら進み出て一切合切裁量をした疲労があらわに出ていた。しかし、遠目になる娘々にはそれがわからない。
「別邸には、顔を出してくれていたのであろ?」
「ええ、まあ」
彪龍は、歯切れの悪い返答をした。それだけで、実際そうではなかったことが伺える。
「たまには顔を出して、芙陽とも懇ろに語らってあげてたも。永寿も、そなた様が訪ねれば、『父様父様』とそばをはなれぬというに」
「…はい」
「あの子に行き届かぬ所があれば、はばかりのう叱ってたも。もっとも、芙陽は、沙尚とは違って聞き分けのいい子だから、ほかならぬそなた様の言うことならば、きっと聞こう程に」
「…は」
「彪龍殿、休まれたほうがよろしいのでは?」
流石に、瑠威趣龍もけげんな顔をする。自分のする仕事までしてもらって、疲弊された顔をそのままにはしておけないとさすがに思ったのだ。しかし、彪龍はうつろな顔を返しながら、
「いや、これも己を磨く試練のうち」
と言い、やがて、ほとんど口を付けなかった酒杯をおく。
「せっかくの瑠威趣龍殿の土産をいただきながら… 思案することがまだ残っております、今はこれで失礼を」
そして、二人に、慇懃に礼をして、その場を立っていった。

 成り行きとはいえ、芙龍公主の話を持ち出されたのが、今の彪龍には辛かった。
 いつか聞いたあの話が事実ならば…いや、公主が生まれてからずっと見ている侍女の言が事実でないはずがない…自分は、誰とも知らぬ他人の子を娘と呼び、その他人を自分の婚礼以前に通わせていた公主を、妻として愛しんでいたということになる。
 自分が、彪龍家の家長で、あるいは公主を娶った立場でなかったら、この憂さをいかようにもはらす手だてもあっただろう。しかし、それも出来ない彼には、日々も政務に自らおぼれ、「妻」と「娘」に会わずにいることで、かろうじて自分の矜恃を保っていた。
「戦に、なるのだろうか」
娘々達の口ぶりからすれば、きっとそれは避けられない道なのだろう。目に触れにくい調停よりは、目に見える戦で制圧したほうが、市井の評判にも立ちやすい。その戦のために、離宮に流れた禁軍の穴を、ウィンダランドの私兵でかため、数の上でも圧倒させる必要があるのだ。
 戦となっても、自分は将となるから、前線に出て戦うことはまずないだろう。自分の命の危険は、皆無に等しい。
 執務室に戻り、官吏を呼び出した彪龍は、
「口の堅そうな所を見繕って、ここにつれて来なさい。頼みたいことがあるから」
と命じた。

 美麗は、離宮から少し離れた、とある平原にいた。隣には驪龍がいる。ここまで美麗を連れてきたのも彼だ。
 このしばらく、また自分に食指を動かしていると言ううわさは、もちろん、美麗が知らないわけがない。ここまでつれてきて、それでも自分を口説きにかかるのかと、美麗は命龍をあやしながら思っていたが、驪龍の顔は、無表情にも思えるほど厳しい。
「当代の仁羅、この平原を見るが良い」
平原をゆびさし、驪龍の口を借りて智覇が言った。
「この平原を戯珠広野という。初めて我々が、世の乱れと戦った場所、以来何度となく、決戦に用いた場所」
美麗が、風の強さにか、眉根を寄せた顔になる。
「結局戦争になるってこと?」
「我々がそれを避けようとしても、向こうがその気であれば避けられぬ」
智覇は、当たり前のように言う。それを危惧している美麗の前でも、平気で言う。
「後はお前が説いて聞かせよ」
智覇はそういって、静まる。驪龍が、美麗を横目で見ながら
「こんな時でもなければ、あるいは、命龍がいなければ、それなりに雰囲気もある場所なんだが、今はそういう状況ではないと、こいつ(と彼は、頭をさして)が言うのでね」
という。
「…兄者の所に…」
そう続けようとして、驪龍は言いさす。そして、改まった。
「いや、その前に、少し説明が必要だ。
 美麗、ナテレアサと言う国は知っているだろう?」
「名前ぐらいは。あとはよく知りませんけれども、娘々のお気に入りで、娃龍公主様の実の父という瑠威趣龍と言う人の生まれた国とか、聞いていますが」
自分たちが、世界の中で一番高貴な種族だと思っているこの龍の国で、他国のことを知るのは容易ではない。青龍が離宮にはいって以来、食客もめっきり減って、そういう情報に美麗はこの頃ひどく疎くなっていた。
「この国の南東方角にある、貿易大国だ。今はそれだけ知っていてくれればいい。
 そのナテレアサの水面下で、とある政治的な陰謀が企てられている。その首謀者と目されているのが、ウィンダランド家という、かの国の名家だ」
「…娃龍公主様が嫁がれた所ですね」
「そうだ。彼女を送り出した時、随行した瑠威趣龍が、娘々の名代として、かの家と密約が交わされた。
 そういう報告が、先日兄者の元に届けられたというわけだ」
「密約?」
美麗が気になる言葉を聞き返す。驪龍は、平原を見渡してから、覚悟したように美麗に向き直った。
「君にもわかるようにいえば、相互協力するように、政治取引が行われたというところか」
「相互協力?」
聞けば聞くほど、美麗の理解の先の話になってくる。しかし、美麗は、この話の渦中に、龍神のよりましになったことですでに巻き込まれている。だから驪龍も、智覇の力を借りてでも、説明する必要があったのだろう。
「この戦には、娘々側からは、禁軍と呼ばれる娘々直轄の軍に、ウィンダランドが私的に抱える兵力が加わる、ということだ。
 ウィンダランド私兵の数は定かではないが、おそらく結集すれば、離宮とその近くに集った兵力を遥かにしのぐ数にはなるだろう」
「…」
「そして、娘々がこれで借りを作り、それは、ウィンダランドが国元で何かあった時に禁軍を提供することで返すことになる」
「そんな」
美麗は思わず声を高くした。命龍が、その母の声を目を丸くして見上げる。
「禁軍って言うことは、国の軍隊ですよね」
「まあ、そういうことになるかな」
「他国の陰謀に、国の軍隊をもちだして協力するなんて、他の国が知ったら大問題になりますよ。
 最悪、別の国が、この国に向けて戦争を仕掛けてくるかもしれない。
 そうして、戦争が戦争を呼んで…その内世界中で戦争になってしまいます」
「俺も兄者も同じ考えだ」
驪龍が唸った。
「君がもともといた国がどういう所か、俺はよく知らないが、おそらく、こういう私欲のための戦など、許されることではないだろう」
「もといた世界のすべてを知っているわけではありませんが、おそらく」
「しかしここには、自らの力に頼んで、それを可能にしてしまうものがいる。そういうことだ」
戯珠広野を、遠慮なく風が吹き抜ける。何千年何万年とという、1000年近く生きる龍にとっても歴史的な長い時間、繰り返し、龍神とその敵が血を流し続けた平原は、今は、荒涼と風だけが吹く、嵐の前の静けさに包まれていた。
「戻ろう」
一通りの話を終えたのだろう、驪龍がきびすを返した。
「そうですね。ここは思ったより風が強くて…命龍が風邪を引いたら、また騒ぎになりそうで」
「そうだな」
振り向かず返答する驪龍の声に、作られた明るさを感じる。美麗が帰る方向を向いた時、向き合うように抱きかかえていた命龍が、
「あれ、あれ」
と声をあげ、美麗に方の向こうを差した。
「どうしたの? ちょうちょでもいた?」
笑みながら問い掛ける美麗の横で、驪龍が言った。
「美麗、君は先にもどれ。俺は残る」
「驪龍様?」
「禁軍だ」
ふりかえると、平原を挟んでのぞむぼんやりとした都の真ん中で、金色にはっきりと輝く龍宮殿から、慌ただしい気配と龍神の威圧感が登っているのが、美麗の龍神の角が震えるほどに感じられてくる。
「娘々と、瑠威趣龍か」
驪龍がつぶやく。その背中から、智覇が真っ黒な龍となって伸び上がり、その気配を威嚇していた。
「美麗、早く戻れ。離宮の兄者に、知らせるんだ」
「はいっ」

 娘々は、軍を二手に分けていた。禁軍でも、娘々を直接守護する部隊のみをわずかに残し、残りはすべて彪龍に預けられていた。先に出陣する軍勢は、離宮の待ちに形成された街を破壊し、あるいは戦の気配に乗じて反旗を翻す四足街を制圧するためにつかわれる。
 決戦の場所は、娘々達も、戯珠広野と決めていた。任務を遂行した禁軍はこの平原に終結し、その後、娘々と瑠威趣龍は、ウィンダランドの私兵に守られながら、満を持して登場するという算段であるのだろう。

 時間は少しさかのぼる。
 芙龍公主のいる彪龍家の別邸は、例の戯珠広野に近い、龍宮殿と離宮のほぼ中間になる、小高い丘一つを丸ごと庭にして建てられていた。その別邸に、彪龍がいた。
 もともと自分の家の持ち物なのだし、妻のいる場所でもあるのだから、彪龍がいて何の不思議があるわけでもない。しかし、公主の前に現れた彪龍は、沈痛とも言える表情をし、その身は、いかめしい甲冑に包まれていた。
「万歳翁(ここでは娘々)は、離宮の勢との戦をご決断された由」
その物々しさの理由を公主に問われて、彪龍は重々しい口を開いた。
「万が一のことを万歳翁がご懸念され、忝なくも、こちらにて公主のご機嫌を伺って後軍の指揮をとるよう、そうおおせになられました」
公主は顔を伏せる。
「やっぱり、戦になってしまうのですね。
 私にとっては、辛いものでしかない、骨肉の…」
「この度のこと、公主は全く関係ございません。万歳翁は、どなたのことよりも公主のことをご心配あそばされています。ゆえに、ここより動くことなくおられるよう」
「わかっています。私などが戦場似言った所で、何の役に立ちましょうか。
 私はここで、風頼様のご武運をお祈りいたします。おけがもなく、ここに戻られますように」
公主が、やんわりと微笑んだ。しかし彪龍は、そういう笑顔に笑い返すこともできない男である。数日前、調べさせていたことすべての結果が、彼の元に届いてきた。それが、持ち前の性格以上に、彼をしかつめらしい顔にさせている。
「公主」
「はい」
「この別邸は、いささか寂しい所ですね。もうすこし、龍宮殿に近い別邸もありましたものを」
「いいのです。私が、ここが良いといったのですから。ここは鳥の声や虫の声がよく聞えて、とても安らぎます」
「公主」
「はい」
「もう一人ほど、私達の間には、子があっても良いとは思いませんか」
彪龍にしては、露骨な表現だった。しかし、思索のなかであふれてくる、表に出すには醜過ぎる嫉妬を、この一瞬だけは抑えられなかった。
「…ええ」
公主は、少しく赤らんでうつむいた。
「…風頼様が、お望みなら」
「ならばよろしい。私もこれで、生きて帰る自信がつきました」
そういって、彪龍は立ち上がる。
「もうお発ちですか?」
「はい。あまりに長居をすると、ここから離れられなくなりそうで」
「…」
「どうか、戯珠広野の方は、しばらくごらんにならずにおられますよう。
 戦とは、いかに壮大な大義名分があるにせよ、その最中は醜く、血なまぐさいモノでございますから」
「…はい」

 彪龍はあれこれと、燕淑に公主と永寿の世話のことなどを言い置いて去っていった。
 彪龍の表情は、戦に臨むから沈んでいたのだと、公主はそう思っていた。
 庭の東屋で、琴をつま弾くのをふとやめて、公主は四方を見渡す。ここからは、彪龍が見るなといった戯珠広野がよく見えた。
「…とおきみおやさま」
公主は、手を合わせていた。
「彪龍様と、…水煙様と、お二人がご無事でありますように」
世が平らかになった暁には、また訪れて新しい詩を吟じてくれると言った水煙と、戦を越えたら、夫婦としていっそうこまやかに情を交わそうと約束した彪龍と。
 公主にとって、それらは、どちらも自分に欠くべからざる存在だった。
 どちらも。

 美麗は雲を呼び、命龍を落とさないように抱きかかえながら、離宮への道を急いだ。そのうち、遥か下の街道を、砂煙をあげて進む一団に並ばれた。翻る旗に、それが、驪龍の言った禁軍の兵士であろうことはすぐにわかった。
 しかし、雲はもう全速力だった。やがて、兵士の一団は美麗の雲を追い越し、離宮に向かって駆けていく。
「美麗」
仁羅が美麗から抜け、端正な顔をのぞかせた。
「妾が先に行き、竜神達にこの危機を伝える故、お前様は命龍を守って、後からきやれ」
「ど、どうするの」
「こうするのじゃ」
仁羅は、美麗の前で、瑠璃細工のような真っ青な龍になった。
「されば、先に行くぞよ」
そう言い、碧い龍は、上空の風を呼び寄せ、一度気炎をあげ、まっしぐらにかけていった。その勢いは、街道を駆けていた禁軍の兵士も、龍神の気迫を感じ取ったのだろうか、進軍をやめて立ち止まったほどだった。