しーある 「不審なものがいる?」 とある日、門の守衛の報告というものを聞いて、大貴龍はまず怪訝な顔をした。 「はい、大貴龍様を知っていると、会えばわかるとの一点張りで」 「それで私のところに持ってきたのですか」 末は宰相という私になんてささいで面倒なことを。虫の居所が悪いのか、そうぶつぶつといいながら立ち上がる大貴龍の後を、美麗もついてゆく。 廊下をいくつか曲がったところで、大貴龍はやっと美麗に気がついたようで、 「どちらまで」 と聞く。 「あなたと同じところまで」 とかえすと、 「…来ても何も面白いことは有りませんよ」 大貴龍は肩をすくめる。 「あなたを名指しで開門を求めているという人に興味が有るだけよ。なにせこっちは龍神を下ろしてこの方危ないこと何一つしちゃいけないって、もう退屈で退屈で、なんだから」 「そうですか、好きにしなさい」 大貴龍は美麗の大げさにも聞こえる言葉を聞いて、あっさりと同行を許すように先をすすむ。 「そうだ」 離宮の建物と、問題の発生している門とは、歩いてじつに数分以上の距離になる。その道々の間、振り返らない大貴龍の背中に、美麗は矢継ぎ早に語りかける。 「そう言えば、四足街の蘭英さん。元気かしら」 「元気であればいいんですけどね」 「大変よね、角がないってだけであそこから出られないなんて」 「法律ですから仕方有りません」 「勝手に出たら危険なんでしょう?」 「原則的には強制的に戻されますが、たびたびになれば当局も考えるでしょう」 「そうなの? 私が抜けてきたのは特別だったからなのかな」 「あなたは角のあるように変装してきました。つまるところ一般的に、先祖の姿を踏襲しないものは珍奇なものとして忌避しているだけの話です」 「大貴龍さんは、そういうのに反対している人なの?蘭英さんは『私達の立場に理解のある人』っていっていたけど」 「あの四足街を管理しているのが、私が属する貴龍家だからですよ。あの街については、私個人は理不尽なこととは思っていますけどね。慣習を改めるのは難しいとも思っています」 「私が手紙を持ってきた蘭英さんとは知り合いなんでしょう?」 「ええ、そういうことになりますね」 「どうしてあの人と知り合いなの?」 「聞いてどうします? ただの知り合いですよ」 「本当に?」 「何かあったとしてもそれは個人的なことですから、特に話す義理などないと思いますが」 「そんなこといわないで」 もう大貴龍は何も言わなかった。問題の門が見えていたからだ。困惑気味の門衛に 「どうしました」 尋ねると、門衛はどうも困り果てたような顔をして、不審者はとにかく面会を求めている、というようなことを言っているようだ。大貴龍は、門の前まで出ていく。門は、人の顔辺りの高さが格子のようになっていて、向こう側で待つ人影が見えた。 「貴龍洋です。私を名指ししてのご用件は何でしょうか?」 事務的に、格子の向こうに言うと、格子ががたん、と鳴った。 「洋様!」 「は?」 大貴龍は、名前を呼ばれて、格子窓の向こうを改めて見る。美麗には見えなかったが、その目の表情は、驚きながらも全く険がない。 「…蘭英か!」 「はい!」 門番を急がせて扉を開けると、見たことの有る人影が、中にぴょこん、と入ってくる。道行きの荷物をどさっと置いて、 「到着ぅ」 というその女性こそ、美麗が初めて出会ったこの国の住人、しかし、先祖伝来の角を持たないゆえに不如意な生活を余儀なくされていた蘭英である。その彼女の容貌は、確かに別れたときと変わらない。しかし、今や彼女には龍神を下ろした証である二対の角が威容を表している。蘭英が集うべき最後の龍神だったわけだ。大貴龍は、そんな蘭英を目の前にしてしばらく声が出なかった。 「君も…龍神だったのか」 と、やっとのことで言う。 「はい」 美麗はすでに蘭英に張り付いて、「まさかまた会えるなんて思わなかった」と感慨に踊り出しそうである。 「自由に街を歩くことが、こんなに嬉しいなんて思わなかったわ」 と蘭英も、道々の感動を伝えたいようで、少しく顔を紅潮させている。大貴龍は腕を組み顎を押さえて、ずいぶん深い考え事をしているようだった。が、 「とにかく…中に入ろう。その方がいい」 と、くるりときびすを返した。 珍しもの新しもの好きの青龍に仕えて、多少のことでは動じる様子もない大貴龍が、曰くありげに蘭英と再会したときの、表には出ない取り乱しようは、久しく錆びついていた美麗の心の琴線を大きく弾いた。 「蘭英さんとはどういう関係なの?」 と聞いてみるが、 「見た通りですよ」 と答えるだけだ。蘭英は、それには何も言わない。ただ笑っているだけだ。その蘭英に 「そう言えば蘭英、桂芳はどうした? 一緒ではないのか」 大貴龍が尋ねると、蘭英は 「子供じゃないのよあの子も。1人にしてきたわ」 と返す。龍神の共通理解は、彼女の中にも入ってきたのだろう。笑んではいたが、良く見れば、一抹の切なさがその表情には見受けられた。 「我が貴龍家は、芙龍公主をお預かりしている彪龍家、また興龍家とともに、かつては宰相・娘々を輩するに十分な格式を持った家でした」 と、美麗に促されるままに大貴龍が、自らの家の沿革を語る。 「不文律として。二代続いて同じ家から正宮をたてることは避けられています。娘々を輩した家から宰相も輩されるのがならわしですが…権力が龍王のご威光をしのぐことがないように、常に三家は互いを監視していたのです。 燎哲娘々は彪龍家、姚妙様(青龍の妻)は貴龍家の出でおられる。そして来る青龍様の御代には、家長となった私が宰相になるというわけです。 しかし、一度家庭にもどれば、私もどこかのやんごとない筋と同様に親とソリが合わない口でしてね。 私の父はそれは格式と建前を重んじる石頭でしてね、父の召し使っていた使用人の娘が角なしであることを調べ上げ、しかもそれが私と疎からぬとわかった途端、命すら狙った…彼女が四足街に逃れていなかったら、今ごろ八つ裂きにでもされていたでしょうね」 「悲恋なのねぇ」 「ありがとうございます」 美麗のつくづくという相づちに、大貴龍は皮肉っぽい返答をした。蘭英は、青龍に目通りするために身支度を進められ、別室にいる。 「その上、龍神のよりましの運命によって、さらに悲劇になりそうです」 「あ」 言われて美麗はは、と口を押さえた。 九をささえる八龍神。我が子命龍が維持する世を作り出すために、自分を含めた龍神はかけがえのない犠牲を払うことになる。 「彼女に何か有れば私も命はない。あの頃彼女に誓った言葉は、このためにあったのだと気づかされているのですよ」 大貴龍は、いつものような薄い笑みをした。そこに 「信羅様お出ましにございます」 と声がして、蘭英がはいってきた。 「よかった、サイズぴったり」 思わず美麗がつぶやく。自分が仁羅と同化したあの祈祷の後、絢龍公主から拝領された衣装を、彼女は蘭英に着せたのだった。 「緊張してるのかしら、息苦しくなってきたわ」 と、髪飾りと角飾りで頭も上げられなくなったいるのか、うつむきがちにいう。 「…では、天子をお呼びしよう」 大貴龍はそういって、くるりときびすを返す。いなくなってから美麗は 「ま、久しぶりに会った恋人がせっかくドレスアップしたのに、きれいの一言もないのかしらあのひとは」 と中っ腹にいう。蘭英はその袖をついとひいた。 「洋様はそういうのが苦手なだけよ」 「でも」 「私は、あれだけでも十分」 と笑う蘭英の顔も、十を知ったような表情をしていた。 「…そうですか」 美麗は、二人の間の、余人には入り込む好きのない何かに、圧倒されるよりなかったのだった。 八珠龍神に与えられた過酷な運命は、よりましがこれまでどんな人生を歩んできたのかについては、全く考慮されていないと、仁羅はいう。 「よりましとしての働きを終えたあと、我ら龍神の陪神となるのは、何にも勝る名誉であるはずだがの。 美麗は特別じゃ、お前様は妾が何にかえても、きっと帰してあげようほどに」 その運命を知らされて知っているはずなのに、興龍や水煙以上に蘭英は明るい女性だった。 「私、もう洋様のおそばを離れません」 と言い、そのためならばと、美麗と一緒に青龍の世話も始めた。二人とも、本来守られるべき龍神なのだからと、青龍は全く当惑した顔をしていたが、その内、したいようにさせてくれた。 青龍と姚妙と、その小さな皇子公主に命龍と、その姿は、見るものが見たら、一つの理想的な家族の姿だったし、また乱心して自らを竜王と言い出した女と、それに従う一族を追い落とし、本来の流れに差し戻すべき旗印に見えたかもしれない。 事実、国の東西南北にある、角なしや素人間を収容する四足街では、角なしの女性が龍神に選ばれ、青龍の元に帰したとの報が入るや、長年のうっ屈のすべてを娘々にたたきつけるような勢いで、青龍支持を打ち上げた。 連日入ってくる各地の動きを、取捨選択して青龍に伝える大貴龍の姿は、確かに忙しそうだが楽しそうだ。楽しそうだが、時々かすかに見せる疲弊の表情は、激務だけが原因ではなさそうだ。小貴龍には目の毒気の毒というところだが、美麗は離宮内で営まれるそれぞれの日常に、不思議と義務感を感じていた。 「ねえ」 と、仁羅に聞く。 「龍神の陪神って、絶対ならなくてはいけないものなの?」 仁羅はしばらくうなっていた。 「美麗、お前様、もとの世界に帰るのをあきらめたか? 命龍が心配で、自らの最初の望みを捨てるのか?」 「そうじゃなくて」 美麗は考え事をするようにあごをひねりながら、さめた茶をくい、と一口に飲んだ。 「考えたの。原因を突き詰めて、それが何とかなりそうなら、それを解決させたことで、龍神の直接代行者であるよりましの仕事は終わるのよね」 「そうじゃな」 「すべてのよりましが…そこで陪神になるのを喜んだのかな、と、思って」 仁羅は、長く黙った。振り返ってみると、彼女の端正な表情の眉間には深く皺が刻まれている。 「これまでよりましは、陪神になることを喜びこそすれ、拒みはしなかった。多少の未練はあったもしれぬが、妾にはわからなんだ。 そんなことを言い出したのは、お前様がはじめてじゃ」 「私はもとの世界に帰れるけれども、ほかのみんなはこれまでの暮らしを捨てなければいけないなんて、そんなの不公平すぎる。 そう思うのよ」 「一理はあるの」 仁羅はそれだけ言った。 おのおのの本来をむしばみながら龍神が存在する。それは美麗にとっては、あるいは理不尽にも見えただろう。出来ることなら、悲しい運命は、自分と命龍が離れ離れになる以上にあって欲しくない、そんな気がしていた。 蘭英という存在が出てきてから、同じき龍神でありながら、驪龍は落ち着かない。 龍神というより、男としての驪龍の部分が、美麗に対してまたぞろ食指を動かすようだった。 美麗と一緒に蘭英が言ってみれば宮仕えみたいなものを始めたのを知って、名目としては自分の世話をさせるために美麗を自分のもとに、と、日参するような勢いで青龍に頼み込んでいた 「そう頼み込まれても、美麗はお前を命龍の父親と認識もしていないようだぞ」 と、説得する青龍も、連日の勢いでいささかうんざりしているようだった。 「お前が美麗と思抱(天地の気を融合させる生殖)により命龍を設けたんだとお前の言ったように説明しても、まり…なんとかいったな、男によらずして母になったという、彼女の故郷の偉人の話で混ぜ返されてしまった」 「そんな」 驪龍に言わせれば、思抱で得た命龍は自分の子としても相違ないはずだ。それからすれば、美麗を自分の妻にすれば、龍神の伝承通りになるし、智覇も何も言わないが、それを望んでいるような節もある。しかし美麗は、自分が麒翔という一詩人として接していた頃より、驪龍にははるかに他人行儀だった。 「こんな身分、不自由だ」 驪龍は子供のようにむくれている。それに青龍が、子供に諭すように言う。 「亡き父上とて、万事が万事如意でおられたわけではない。 美麗のことになるとどうも、いつもの冷静沈着が売り物のお前では無くなるな」 「美麗には、天亮を感じるんだ。仁羅と一緒に、天亮が生まれ変わってきたような気がする。 天亮も、時期を間違えただけで、あるいは仁羅のよりましだったのかもしれないと思うと」 「だが天亮はよりましに選ばれず、死んだのだろう? 娘々の謀略で、無残にも切り刻まれたとか」 「…」 青龍の突き放しように、驪龍は心底から不満そうだった。この離宮に発つ前、勢いのままに抱きしめた美麗からは、天亮と同じ香りと柔らかさがあった。それを回想する驪龍に、青龍が追いかけて言う。 「百歩譲ってだな、はたして美麗がお前に添う必要性があるのかね綿には疑問なのだがな。むしろ彼女は、興龍がお気に入りのようだが…」 「もういい」 驪龍は、足音荒くその場所を去る。青龍は、弟の振る舞いに、少年時代の闊達さが戻ってきたような気がして、それでも嬉しかった。 離宮で、青龍が登極を宣言したという話は、龍宮殿の中をひそかに走り続け、官吏達の分派を招いた。現在宮廷を接見するのは娘々をもり立てる彪龍一族であり、青龍の下では権勢を振るえる貴龍一族と、事実上潰された興龍一族は、青龍の支持を押し立てて、離宮に向かうものも出たりした。それ以外諸々の無名の官吏は、推して知るべしである。 離宮は、龍宮殿を中心とした市街地とは少し離れた郊外にある。それでも、昨今の離宮と周辺のにぎわいようは、この国に二つの都があるように思わせた。 官吏だけが離宮に集ったのではないのだ。民が離宮の周辺に町を作り始めたのだ。その町には、龍もあれば角なしもあり、一種独特な雰囲気があったが、活気だけはあった。娘々のその場凌ぎの内政が民の締めつけになり始めていたのは、想像に難くない。 そして、離宮の中では、最終的には、龍宮殿の娘々達との間を、戦で雌雄を決することもありそうだと、そういう方向になり始めていた。あるいは青龍は、母と戦うなど本意ではないと言い出すだろうが、青龍支持をかかげてやって来た義勇軍などは、もうそのその気でいるようで、龍宮殿で武官の要職にあった経験からその取りまとめを請け負っている興龍も、その執り成しには手を焼いているようである。 「こちらは龍神の数で勝っている。かつ女主(女の竜王)等という先例を無視したような非道をするものを領袖にかかげる軍勢などに負けるはずがないと」 そういわれても、美麗や蘭英は戸惑う顔をするばかりである。 「あの」 と美麗が口を開く。 「龍神のよりましの中には、専門的な戦争の訓練を受けていないものもいるんですよ、きっと、足手まといになります。 話し合いで何とかならないのですか」 いつのまにか、龍神になった五人も、軍隊の将の扱いになっていると聞いて、さしもの美麗も戸惑う。戦争なんて言うものは、テレビでどこかの外国がやっているようなものだけとしか印象がないのに、目の前で実践的な話になると、出陣すらしていないというのにね足がすくむ気さえする。 とにかく、美麗の言葉に大貴龍が返した。 「龍宮殿が、折衝で和解に応じれば良いのですけれどね」 その口ぶりには、すでに試みたがダメだったという諦めがにじんでいる。 「戦争の中やその後でいちばん苦労するのは一般市民よ?」 「美麗、さすがにこの場面では、君の理論は通用しないよ」 興龍が、ぽん、と、なだめるように肩をたたく。 「青龍様や俺達龍神のためなら死んでもいいってうのが義勇兵としてあとつまっているんだ」 「そう…ね」 「君たちにも、その一般市民にも、被害が及ばない方法を青龍様はお考えである」 大貴龍が言った。そこで青龍がハタと膝を打つ。 「被害といえば、妹達はどうしている」 「沙龍公主におかれては、先日桜霞山の庵を出られ、照龍公主のもとにおわすとか。龍宮殿の中は娘々の手の者の耳目があります故に、照龍公主は何らかの方法で安全を確保したいと」 「なるほど、照龍大姐のもとなら、娘々もおいそれとは手出しできまい」 青龍が安堵の顔をしたのに、美麗は首をかしげて、大貴龍の服の袖を引く 「なんですか美麗?」 「照龍公主って言ったら、この間離宮にいらした方よね」 「そうですよ」 「娘々より強いの?」 大貴龍は複雑な顔をした。美麗の言葉の意味がすぐにはわからないようだった。ややあってから 「強い、というその定義が何に対してなのはわかりませんが、娘々が思うままに御することの出来ない影響力を持っている、という意味でなら、確かに、公主は、娘々と同等に近い力を持っているかもしれません」 「ふうん」 「ここだけの話ですが、お人柄もよく似ていらっしゃる、いわば水と油です。亡き竜王がおわして、やっとお二人の間は保たれていたのですが…」 大貴龍がため息をついた。あの人当たりの良い、美麗にも優しかった竜王がいなくなってからの二人の確執は、そのため息だけで、美麗にも容易に想像できた。 「沙尚はそれでよい、芙陽はどうなんだ」 「芙龍公主は、現在この場所に近い、彪龍家の別邸におわすとか」 芙龍、ときいて、黙っていた水煙がぴくりとする。 「永寿様をあげられてからあまりおからだの調子が芳しくなく、またご夫君が龍神となり多忙ゆえのことと、聞いていますが… 先日伺った者の話によれば、公主ご本人のお出ましはなく、侍女の応対で、ご本人は沈みがちでおられるとか」 「さもありなん。聞えてくるのは、私達の骨肉の争いでしかないのだからな」 「御意」 「出来れば私が直々にいって慰めてあげたいが、この時勢ではそうもいくまい。戦の道具にはさせたくないしな」 そこに、声が響いた。 「恐れながら、万歳翁」 水煙だった。青龍の前に諸膝を着き、平伏している。 「どうか、私を万歳翁の名代として、芙龍公主のもとにご機嫌伺いのつかいを」 「水煙、お前が?」 青龍が、平伏したままの水煙を見る。 「さまざまにお考えもありましょうが、どうか… 龍宮殿にありましたときから、公主には、私の詩に一方ならずお心寄せを忝のうしていただきました。 公主にはただいまのご時世は全く華変わりなく、むしろ」 「お前の言いたいことはだいたいわかっている」 青龍がため息をついた。 「お前に任せる。芙陽をお前の詩で和ませてやってくれ」 「御意」 水煙の顔がぱっと明るくなる。美麗は、空を歩くような軽い足取りで退出してゆく水煙を、複雑な笑みで見送る。振り返れば青龍も、同じような顔をしていた。沙龍公主がここにいれば、きっと同じ顔をしていたにちがいない。 「公主、芙陽様!」 芙龍公主のもとに、侍女の燕淑が小走りに近づいてくる。彪龍家別邸の、風光明媚に作られた庭のあずまやの中で、公主はつれづれのようにほろほろと、持ってきた琴をつまびいていた。 「どうしたの、燕淑? そんな慌てた声を出して。永寿のいたずらくらいては、もう私は驚かないわよ」 「いえ、あの、それが」 琴から目を上げない公主に、燕淑は何とか言葉を続けようとする。 「離宮の青龍天子様からのお使いが…」 「斉龍大哥の?」 「はい、しかも、す、水煙様が名代として…」 琴の音が止んだ。 「いつものように、私なり母なりで応対しましょうか」 「いえ、ここの籍を調えて、ここにお招きしなさい」 「え、いいのですか」 「はい。久しぶりに、あの方の詩が聞きたくなりました」 しばらくして、見慣れた影が近づいてくる。 「公主、ご無沙汰をしております」 使者水煙は、あずまやの入り口の前で平伏した。その水煙の見えない所で、公主は、だんだん大きくなる胸の高鳴りをおさえようとしている。声藻気配も、昔とほとんど変わりない。もうあうことは内だろうと思い、おそらくは無効もそう思っていたに違いないというのに、どういう運命のいたずらか、二人はまたここで顔をあわせようとしている。公主はまるで夢を見ているような表情だった。 「挨拶はそれまでにして、どうぞ、こちらに」 そう言う声は震えていたかもしれない。そして、入ってきた水煙に、公主は自然と近づき、その胸に飛び込んでいた。 「こ、公主」 水煙は一度慌てはしたものの、己の欲には逆らえずに、飛び込んできた体を抱きしめてしまう。 芙龍公主は、ひとしきりそうされた後、懐かしい顔を見ようと、顔を上げ、そしてはっとした。水煙に、龍神の二対角がある。公主は飛びすさって、その二対の角にたいして、まるで竜王に陪臣がするように、深々と腰を折った。 「公主、どうか、そんなことは」 水煙はそれを慌てて立たせようとする。 「あなたには、尊い龍神が降りていらっしゃいます、八珠龍神は救国の英雄の魂、妾が膝をおる理由は十分にありますわ」 公主はいささかに膝を震わせながらいる。しかし水煙は、自分のどこにこんな強引さがあるのかという手で、公主を立たせた。 「今は私はただの詩人水煙で、天子の名代でご機嫌を伺いに参っただけです」 と言い、公主を元のように座らせた。 「お変わりのないようで、何よりです」 そのうち、燕淑がもてなしの用意を簡単ながら揃える。水煙をけげんな目で見ようとしたが、水煙の角を見るや、腰が抜けたような足取りで退っていった。 水煙は、芙龍公主から現状についての質問攻めにあう。もちろん水煙は、自分のわかる範囲では、なるべく平等に説明をした。 「それでは、戦いは避けられないのですか?」 公主の声が震えてくる。 「母と夫、そして二人の兄が、相対立して戦うのですね」 公主にしてはやるせないことこの上ないことだと、水煙は同情する。 「私にとっては皆家族…その家族が荒そうだなんて、お亡くなりになったお父様がご存命だったらどんなお顔をされたことか」 うっすらとたまった涙をそっと袖でぬぐう、そのしぐさは、これが一児の母かと思うほどあどけない。 「公主、その争いを鎮めるのがね我々の上におりたもうた龍神なのです。 どうかお気を落とされずに…お子様にもお悪うございます」 「ええ、そうね、でも」 「公主のお立場が脅かされることはないと思われます。青龍天子は、御妹である公主の身をご心配だからこそ、私という使者をもって、お見舞いくださったのですから」 今まで担いほど、水煙は雄弁だった。自分の中の龍神が、あるいはその勇気をあたえたもうたのか。水煙はそう思うことにした。公主はその水煙を、つぶらな瞳で、尊敬すら込めて見上げている。 「あの、水煙様」 「はい」 「すべてがおわったら、また妾のところにきて、詩を吟じてくださいましね。 妾は水煙様の詩が大好き。もう、空で覚えるほど、いただいた詩集を読みました」 「…ありがとうございます」 水煙も、誘われて目の端に涙がにじむ。 「私を選びたもうた龍神の御心積もりなど、わかる由もありませんが、選ばれたかぎりは、その責を全うし、きっと、またおそばに」 「はい」 あの… 言い出して、公主がふと黙る 「どうされました」 「何でも、ありません、その」 芙龍公主は何も言わなかった。言えなかった。いつも夫に言っているような、恋々とした言葉が出そうになったが、それは水煙のために言ってはいけないものだと、理性がおしとどめた。でも、水煙の存在という者は、自分が知らない間に、自分に深く食い込んでいると、今になって気がつかされたのだ。 『…ほんとうに?』 燕淑の母が自分に話したのは、本当のことなんだろうか。娘・永寿は、本当に? 何も言わない二人の間に、風がさっと流れる。そこに。 「母上しゃま」 と、永寿が顔を出した。あどけない顔が、水煙をみて、 「父上しゃまじゃない」 と、泣きそうな顔をする。公主は柔らかな母の顔をして 「母上様のお兄様が、永寿は良い子にしているか聞いてきて欲しいと言われてきたお使いのひとですよ」 と言った。 「永寿はいいこにしてるよ」 「ええ、そうでしょうとも。燕淑に怒られてばかりってことは、言わないでおきますね」 「うん」 「さあ、燕淑と遊んで来なさい。お使いの人と大切なお話しの途中から」 「うん」 そっとおろすと、永寿はまっしぐらに、開いた扉の前でおろおろと待つ燕淑に走って戻ってゆく。 「今のが永寿…かわいいでしょう?」 「はい、…公主に似ていらっしゃいます、将来が頼もしく…」 「ええ、みんなそういいます」 添う言われて、水煙はどきっとした。あの永寿の、公主に似ていない場所といえば、むしろ自分に似ているような気がしていたからだ。遠くからあずまやに手を振り、中に入ってゆく永寿の姿が、水煙の胸をえぐった。 公主はそれをどう思っているのだろう、それは知るよしもない。しかし水煙は確信していた。あれは確かに、自分の娘だと。 「まだ哥々達や姐姐に、永寿を見せてないの。いつ会えるのかしら」 公主の言葉に、何となく投げやりなものを感じた。水煙の返答に力が入った。 「永寿様のことも、責任もって伝えさせていただきます」 「…ありがとう。でも、妾からは、あなたに何のお礼も出来ません」 「そんな。お気持ちだけで十分です。またここにかえって、公主の前で詩を吟じる、その約束が出来ただけで私は、もう」 「…水煙様…」 一時の沈黙が、あずまやをつつんだ。型通りの面会にしては長いと気をもんだ燕淑が、窓からあずまやを見た。そして、へたり込み、目を閉じ、耳を覆った。 「どうして今までうちあけてくれなんだ?」 「何より、公主にはご理解の戴けないことで…言い立てて公になれば、その災いは公主お一人ならず、彪龍家すべてにふりかかると思い…」 「気を使ってくれていたのか。礼を言おう」 「もったいない仰せで…」 燕淑の母は、やはり、この秘密を、自分と娘だけにしまっておくのは重かったのだろう。人のいないときを見計らい、彪龍に一切を打ち明けていた。 しばらく彪龍には言葉がない。 「どうか、公主だけはお責めになりませんように。ご存知のように、公主は子供子供しく、その道には全く疎くていらっしゃいます。これからは、ご夫君様のお手でよろしくお導きを…」 わかっている。彪龍の口はそう動いていたが、声にはならなかった。座っていた椅子に脱力したように座り直し、燕淑の母に、退るように手振りで示すだけだった。 |