しーいー
もうひとり、美麗達の前にあらわれるべき八珠龍神のひとり・信羅はなかなかあらわれる兆しもなく、美麗はただぼんやりと、自分の部屋から外を眺めていた。
命龍については、しっかりした乳母やら侍女やらが何人もついて、彼のよごれた手を拭くことすらさせてくれない。加えて美麗本人も陰のように誰かが側にいることになり、そういう環境に慣れている青龍や驪龍ならいざ知らず、手の上げ下ろしにも神経を使う。今もしかりである。
そこに、突然剣戟の鋭い音がしたので、美麗は改めて外を「見た」。庭の、そう遠くない距離で興龍と水煙が手合わせをしていた。だが、興龍の遊び相手にもならない水煙のへっぴり腰に美麗はつい笑いを誘われて、命龍を乳母の手から抱え上げ、雲を使って下におりた。ヒトの腰ぐらいの高さを保たせて二人に近付く。
「がんばってるのね、お二人さん」
「美麗」
二人は同時に振り向く。
「一体どうしちゃったの?水煙、あなたがそんな真剣に筆より重いものもっているのって初めて見たわ」
「いや、それが」
水煙は、持っていた刃のない練習用の剣を弄びながらうつむく。
「もし、最悪戦いに巻き込まれたりしたら、のんびり詩を作っているだけじゃ済まないだろうから、今のうちに心得だけでもしておこうと思って」
「へえ」
水煙なりに考えた末のことなのだろう。
「がんばってね」
としか美麗は言えなかった。
「ま、水煙殿に戦いを強要するようなことにならないように、なんとか事態を好転させなきゃならないんだろうが… 実際の所は難しいらしい。大貴龍どのの顔がこのごろいっそう渋いよ」
汗を滲ませている水煙の横で、顔色ひとつ変えていない風情の興龍が言う。そして、美麗の横で四方を興味津々に眺め回している命龍の頭に手をおいた。
「命龍、元気か?」
気さくに髪をくしゃくしゃにされて、命龍は「きゃあ」と楽しそうな奇声をあげる。
「母上を困らせるなよ」
「あい」
美麗はつい興龍を思いつめたような心持ちで眺めてしまった。昔のオトコに似ているからどうのという感情はもうなくなくってはいた。命龍が、実質的な「接触」はなくても、驪龍ゆえに生まれたということ(仁羅によれば、そのあたりの事情も龍神の共通理解の一部に組み込まれているそうだ)についても、かれがどんな感想を持っているのか、しばらく気になってはいたが、尋ねそびれつづける間にどうでもよくなってきた。なにか言いたいことがあるにしても、大体興龍はなんだかんだと過ぎたことをごねるような性格ではない。
「水煙、興龍、今日はもう止めにして、お茶でも飲まない?」
美麗がそう言い出したところで、大貴龍が現れ、面々に青龍の元に集まるよう言った。
青龍が書斎として使用している部屋には、美麗には見なれない人物がいた。だが、興龍と水煙は、その人物をみるなりざっと膝を折った。驪龍が隣にひかえた青龍までも、自分の椅子を客人に譲り、自身は来客の一段落ちた椅子に座ってるという物々しい事態のなかで、美麗だけがきょとんとしている。
「おお、たのもしや」
来客は、美麗達の姿を見るなり立ち上がり、足音はたてないがさっそうとした足取りで、面々の前にまでやってきた。美麗がまだきょとんとしている所に、興龍がその袖をひく。
「控えろ美麗、照龍公主だ」
「は?」
「崩御された万歳翁のお従姉で、絢龍公主の前の楓露山別当でいらっしゃった」
「えっ」
そこまで言われて、やっと美麗は慌てて膝を折る。しかし照龍公主は、美麗と、他の龍神にも起立を命じた。
「斉龍、このことこそ、そなたの徳の現れと言うもの」
と、龍神の物とも見まがうようなニ対の角を揺らす。青龍が言う。
「お前達にも伝えたい火急の知らせを、照誼大姐直々にお持ちになられた、心して聞いてほしい」
公主は先を促されて、口を開く。
「このたび、八珠龍神のよみがえりたる所以は、ひとえに、ただすべき乱れが龍神内部にあるからにほかならぬ。
やんぬるかな、龍神がそのよりましに求めるものは、己に通ずる気の波のみ、そのよりましが、我が手になった龍神の力をいかように用いようとも、龍神にはなんの手の施し用がない。
妾は、龍宮殿におる間の、三龍神がよりましの奥底で泣く声が耳を離れぬ」
「龍宮殿にも、龍神はいるのですね?」
「いかにも。妾が確認しておるのは三柱じゃが」
「そうですか」
美麗は、なんとなく気の抜けた顔をした。
「来るべき龍神がなかなか現れぬとは、先程斉龍より聞いた。
なんの、遠方におるによって、来るのに手間取っておるのじゃろう」
その顔を見て、公主はふふ、と笑う。が、すぐその笑いを顔が消す。
「燎哲…娘々と言った方がわかろうの。あれが『当極』して初めての朝見を行う為に、文武百官を凌雲殿に集めた」
朝見(ちょうけん)とは、皇帝が家臣と直に顔をあわせて、政治の指揮を取る儀式的な会議のことである。
「これまでの長い大龍神帝国の歴史の中には、集めてもわずかな期間にしかならぬが、早世した幼帝の母、あるいは、立太子をなくして崩御した皇帝の正宮が、次期を決定するまでの間、称制として政治を見ると言うことが散見されておる。
そういう例があるにも関わらず、女子の当極が容れられぬとは、この世ならぬ世界で生い育ったとかいうそたななら(と公主は美麗を見る)、解せぬ節もあろうかとは思う。
しかし、その称制の期間というものは、ことごとく、まつりごとの機構が著しく乱れたと言うのが実の所での。当然と言えば当然のことじゃ、あくまで称制は皇帝のなき状態、次期たるに相応しい勢力が複数あれば、自然衝突もあろう。
女子はまつりごとには干渉せぬがよい、そういう風潮があるのを重々承知の上でなお、燎哲が当極しようと思い立ち、知らしめたか…それこそはひとえに、あれが龍神のよりましであることにほかならぬ」
「え!」
美麗達は、しばらく言葉を失っていた。龍宮殿に龍神がいるらしい。公主の話を聞くまでもなく、美麗達は何となく、仁羅たちからそういうようなことをほのめかされてきた。しかし、それが事実となってしまったことに、驚きもひとしおである。
「燎哲は、龍神たる己の姿を、なによりまず知らしめたかったのじゃ。そして、傍らには、同様に龍神たる異人と女婿を配しておったと聞く」
すなわち、瑠威趣龍と彪龍であろう。いつもは何か一言返すだろう美麗も、さすがに声が出ない。
「その龍神…燎哲には 聖導神龍釈悌羅(せいどうしんりゅうしゃくていら)、異人には
聖輝神龍烈忠覇(せいきしんりゅうれつちゅうは)、女婿には聖檄神龍玲考覇(せいげきしんりゅうれいこうは)」
長い沈黙だった。
「…わからない」
その果てに、やっと、美麗が声を出す。
「仲たがいすることが分かってたのに、なんで今回もよりましをもとめたの?」
「それは、そなたらと、おわす龍神のほうがよくよく御存じの筈」
公主は手にしていた扇で口元を隠した。喋りたくないようだった。
「…どういうことなのよ、教えてよ」
美麗は、今度は仁羅に問うてみる。それぞれからあらわれた龍神達も、一様に言葉なく、智覇などは普段からして神妙な顔がさらに暗そうに見える。
「隠してるの?」
「聞いたとおりじゃ。われわれは自分ではよりましを選べぬ」
興龍の身に沿うようにして、義覇が言う。
「本体の人格が強すぎると、龍神が取り込まれることがある」
とは、水煙の礼覇。最後に、仁羅が言う。
「あれらは…よりましの禍々しいばかりの魂の強さに龍神の力を得て、もう妾らでなければいかようにもならぬ。
龍神の乱れは、龍神によってしかただし得ぬのじゃ」
「…百歩譲ってよ? 龍神が一致団結したとして、対処しなくちゃならない世の乱れって」
「女主の出現と、それにともなう世の乱れ、だったのかもしれぬな」
美麗の煮え切らない憤りの言葉を、智覇がうけた。
「ただ一つ、より高位のみおやの誤算が…よりましの一人が粛正すべき乱れの元凶であったと言うことだ。
しかし、もう、何を言っても事態はとどまらぬ」
そうだろう? そう目を向けられて、照龍公主は頷いた。
そして、青龍が厳かに改まった。
「大姐よりのお話は以上だ。
それを受けて、というわけではないが、やはりこの決意を、私はみなに話ししておきたいと思う」
すなわち、それも「登極」の意志だった。
「この大龍神帝国始まって以来、女主ありて世の中平らかなることなしと、史書にも詳しいところである。
女主は傾国の基なり、それは徒に唱えられたものではないと言うことは、この度の事態を鑑みるに、実に先祖の炯眼に感じ入ることしきりである。
先賢の現は軽んずべからざることを今こそ認識すべきである。
私はここに、父先龍王と、とおきみおやに定め付けられた、正当なる龍王として即位することを宣言したい」
場が、ざわ、とさざ波をたてる。
「もっと早く、決心すべきだった」
彼は言葉の最後に肩を落とした。
「が、やがて私のもとに下りきたもう五龍神と…姚妙、子供達のためにも…」
青龍が登極を決意したことは、密かに龍宮殿に伝わっていた。もともと青龍派であった官僚、そして、歴史を鑑みて女主を憂える官僚・学者が自主的に出仕をしなくなる。一部は離宮にやってきて、政権樹立の暁には、ということを言いはじめるものまで出始めた。
二王立つ。その事実に対して龍宮殿が混乱をはじめていることを、知らぬ娘々ではなかったのだが。
「妾には、龍神もこれを嘉しよりましに選びたまう程の力量がある。
青龍の行動を、妾はあらかじめ察しておった。やがて来るであろう二王という国の有事を早期に粛正せんがためと、妾の決意を何故理解しない!」
いつになく声を荒げる娘々に、瑠威趣龍が言う。
「離宮にいる者、頼る者…所詮、そのお手の内で遊ぶ猿に過ぎません。お心を平らかに」
「…」
口を閉じた娘々は、今度は側にあった椅子の足を一発蹴った。
「確かに、青龍のことはやや高を括っていた節はあろうと思う。
早急に…ウィンダランドに要請を送る必要があろうな。ナテレアサは境を接する国の中ではブランデルに並ぶ大国のひとつ、瑠威趣龍どのの祖国でもある…ソニカーヤ家の進言を、まさか御当主も看過はされまい」
「ええ、ウィンダランドの実質的な当主ネフェレ・クラトス殿は、燎哲殿には御友誼を感じております」
「友誼とは言え、恐いお方よ、いずれ世継ぎの王子を差し置いて、『頭の暖かい』姫を傀儡の王にしようとしているとか…
とまれ、沙尚の降嫁の準備を早めにすすめねばなるまいな。あの娘が離宮の輩にそそのかされる前に」
「それがようございましよう。さて沙龍公主ともうせば、すっかり鳴りを潜められましたな」
慇懃無礼な瑠威趣龍の口ぶりであった。それを娘々が、娘とはいえの容赦ない物言いで受ける。
「どうやら、青龍の威を借りておったまでと…身の程を悟ったらしい。
まあ、おびえておればよかろう、妾にいろいろタテついた報いじゃ」
そして、腹立ちおさまらぬままハナで笑った。
「公主はこの大龍神帝国と諸国とを結ぶ糸じゃ。そのために妾が腹をいためた子じゃ。今さら沙尚には口答えは許さぬ」
沙龍公主は、それを、自分の周りに侍っている、娘々から差し向けられている侍女の内緒話から聞いた。
沙龍公主に泣きつかれた照龍公主は、それに柳眉をあげる。
「燎哲め、思い上がりも甚だしい!」
そして、あのかっ達さの消えて、今にも泣きそうな沙龍公主の頭に手を置いた。
皮肉な話だったが、娘々は沙龍公主の心理を見事に捕らえていた。日に日に強くなってゆく娘々の権威の前に、風に翻弄される木の葉にも等しい不安を覚えているさなかだったのだ。そして。
照龍公主はこうも言った。
「…この帝国を出て降嫁するとなれば…角を折り素人間とならねばならぬ。みおやからのあかしを失ったその身体も…素人間と同じように早くに老い消えてゆく定めを背負うことになる…
沙尚、お前がいつか言っておった、諸国を心行くまで見聞したい…それも、夢になりそうじゃの」
すると、沙龍公主はかぶりを振った。
「…大姐、私のことなんて、今はいいの。私がいなくなったら、娃麗はどうなるの?」
「ああ…あの燎哲と異人の子か…わからんの…それこそ…」
「だから大姐、お願い。私達をここにいさせて。私は娘々のたくらみなんかの為にナテレアサに行きたくない」
「ああ、…妾はお前の味方じゃ」
照龍公主は、絢龍公主にはかって、今は廃れた桜霞山の庵を修理させて、そこに沙龍公主等を隠した。もちろん、娘々の意向を内々に悟ったゆえの、無言の抵抗である。沙龍公主はその庵から、震える筆で娘々の意向を辞退する文章を書き提出した。
だが…それは皮肉な結果をもたらした。考えられてしかるべき結末ではあったかもしれない。沙龍公主からの辞退が龍宮殿にもたらされるや、その役目は娃龍公主(娃麗)に回ってきたのである。ナテレアサの権勢家ウィンダランド一族の幼い当主の、将来の妾にされるという。
素人間で言えばほんの数歳の娃龍公主が、まだ二歳にもならない子供の許に嫁ぐのである。その小公主を、準備のために龍宮殿に入れさせる為の、一連の娘々方の態度は実に居丈高で、謀反心のある貴族を粛正するがごとくに不遜に満ちていたと言う。
照龍公主は、離宮に来てかたうけたこの報告を、美麗にうちあけた。
「沙尚は今も、荒らされた桜霞山の庵を直して住んでいるそうな…そのうちに妾の弟子を差し向けて…国から出すことにしようと思う。
あの子は、身の上におこったことを、友とした美麗には知ってほしいと、そう申しておった」
「公主って…不自由ですね」
美麗はじつに感慨深く言った。場所が何処であろうと、歴史の授業で習ったようなことが当たり前のようにおこっている。
「燎哲の肩を持つつもりはないが…実際、公主は本来そういうものなのじゃろう。降嫁がかなわなければ、桜霞山や楓露山に押し込んで巫女とする…
しかし、沙尚はそんな宿命を負うには賢すぎたのじゃ」
照龍公主はため息をついた。
|