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 命龍瑞宝子。それがこの子に与えられた名前である。青龍は揚々として自分のネーミングセンスに酔っていた。
「この国にとって、まさにこの子は瑞宝ではないか?」
そう沸き立つ大人達をしり目に、この宴席の主・命龍は、場の明るさに浮かれた青龍の双児の後を追って歩き回る。斉龍などは、弟ができたように喜んで、菓子を取っては食べさせようとしている。その様子をつくづくと眺めながら、美麗が呟く。
「あの子にまつこれからが、できれば軽いものであればいいけれど」
「まあ無理だな」
驪龍が返す。
「驪龍様、興龍、…龍神の共通理解って、知ってる?」
「共通理解?」
変な示され方をされて、何のことがかわからない顔をした二人も、その内容を説明してもらって納得した。
「知っている。龍神がよりおわした時、入ってきた」
興龍がほつりと返した。
「あの子のために、一度、死ななきゃいけないのよ」
「美麗」
興龍は何気なく彼女の方に手を置きながら言う。
「覚悟ができていなければ、龍神が体の中に入ってきて平気でいられないよ」
「…そうね」
美麗はぷるぷるぷる、とかぶりを振ってから(角飾りがわきの二人をしたたかに叩いた)、
「さ、このことはもう忘れた。
今日は飲むぞお!」
と、諸手をあげた。見えた二の腕の白さに目を眩ませながらも、驪龍と興龍はてんでに、その彼女に幾ばくかの空元気を悟らずにはいられなかった。

 その宴もたけなわになっている時、神官に呼ばれて中座していた大貴龍が戻ってきていた。
「千歳」
と耳打ちする。
「え? 彼等が一緒ではいけないのか?」
「は、千歳お一人に、と」
客殿の一室に来てみれば、官吏の衣装のままの水煙がただ一人平伏している。官吏の証である冠はないが、龍神の二対角の先端が、きらり、と、上座に座した青龍を脅かす。
「水煙か!」
「恐れ多くも、罪人の名をお憶え頂き光栄にございます」
「過ぎたことは言うな、今はそれにかかずらっている場合じゃない」
青龍は面をあげさせた。
「お前も、龍神の一柱だったのか」
「は。…かしこくも聖恵神龍讃礼覇が、私をお選びに」
水煙は言葉もない程恐縮している。青龍は
「よい意味で『類は友を呼ぶ』のだな」
と呟いてから、改まった。
「で、水煙、私一人にしか話したくない話題というのは何だ」
「は」
水煙は文人らしい一切の飾りなしに喋り始めたが、それは龍宮殿を出る前に会った沙龍公主との会話と大差ない。娘々は瑠威趣龍を繋がりにしてナテレアサの某名家と取り引きをしている、云々と。だが、龍宮殿を出奔するに自分を納得できる大義名分をやっと探し出したのであろうと言う、ここにいたるまでの水煙の葛藤を察するに、
「そうか、よく伝えてくれた」
と労うべきだろう。
「ときに水煙、冠はどうした」
「は、冠は、官吏にとっては命とも言うべきものです。
 ですが、以前申し上げましたとおり、私は千歳と沙龍公主様より命を貸し与えられている身と心得ております。
ゆえに」
「わかった。全部言うな。
 水煙、お前は文人でない時には本当に口下手だな」
「申し訳ありません。
 とにかく、千歳が龍宮殿をお出になってから、沙龍公主様は本当にお寂しそうでした。
 時々、小公主を伴われて豊楽閣にもお出でになりましたが、つねに侍女が数名ついておりまして、照龍公主様の仰せに寄りますと、万歳…燎哲娘々の監視のもとにあるのでは、と」
「そうか」
降嫁は時間の問題なのであろう。青龍は天を仰いだ。
「水煙。そろそろ離宮に戻るから、ゆっくりとできまいが、まあ、美麗とも会って、沙尚のことなど話してあげるといい、妹は彼女を友と言っていた」
そう言い、下がらせて、自身はふう、とため息をついた。

 龍宮殿から歩いて五分という立地と言えば、先にも話題になった宰相も輩出しうる名門家にこそふさわしい。
 そこに、彪龍一族の十何軒めかの邸宅があり、現在は当主夫妻と娘の住まいに当てられている。
 規模はそれこそ何十分の一だが、大抵そういう家はおしなべて龍宮殿のような構成をとっており、すなわち、賓客に応対する空間と家の主人の私生活空間、妻以下女性達の空間が南から北に連なっているものだ。
 だが、この家に限り、家の中心にこそ、妻の空間はあった。妻と言っても、その身分は公主のままであるから、いかに夫と言えども家の中心でふんぞり返るわけにはいかないということのようだ。
 部屋の入り口には、「玉華楼」と朱塗りで金文字の額が入っている。楼の周りには、その他の建物に繋がる廊(渡り廊下)と、最高級の技術によって整えられた庭園がある。
 まるでこの世の楽園ともいうべきそのたたずまい、確かに主たる公主は、その夫からの厳重なる命令により、侍女達からは、公主の頃とほとんどかわらない生活を送っている。
 でもそれが、はたして彼女には幸せなのかと言うと、決してそんなことはない。
 邸宅の主・芙龍公主は、ほとんど生まれて初めてと言っていいほどの深い沈思の淵にいた。
 夫・彪龍風瀬子は優しい。母以上に自分を大切にしてくれるし、娘・永寿にも惜しみなく愛情を注いでくれる。だが、その顔が時に、どうしようもないように寂しそうな表情になる。なんでもないと彼は言ってくれるけれども、そういう彪龍を見ると、自分まで切なくいたたまれなくなってくる。
 そのせつなさを弄びながら、嫁入り道具に持ってきた書物の中から、ころりと出てきた詞華集を開いた時、芙龍はたちまちに龍宮殿に居た頃に引き戻されたのだ。
 一度、好奇心に誘われるままに、沙尚姐姐についていったその帰り、白水閣に当時仕えていた侍女から書簡を渡されたのだ。今日の衣装にあわせて誂えた角飾りについていた青い鳥の羽が綺麗で、でもそれ以上に公主の面ざしは麗しいと歌っていた。文人としても名前しか、公主は知らなかったけれども、彼は外の世界の美しさを素朴に歌い上げてくれた。燕淑がしてくれる話と、青龍、沙龍の話そしてこの歌達だけが、彼女に開かれた外の世界だった。
 友として、降嫁を一緒に祝ってほしかった。でも、手紙の返事は、すぐには来なかった。一日以上経ってから、女神が天に帰るよう、と、赤い文字で歌い上げられた(字がかける程の血の涙を流してそれを悲しむと言う意味なのだそうだ)書簡が届いて、芙龍はどうしてそんなに彼がこの降嫁を嘆くのか、全くわからなかった。なんだか恐ろしくなって、返事は出せなかった。
 そして、降嫁まで指を折る程になったある夜に、彼はあらわれた。彼女の理解の範囲外とも言うべき、この数年の心持ちを、飾りなく打ち明けられて、芙龍は
「水煙様、お辛いの?」
と訪ねた。
「わたし、どうしてさしあげたらよろしいの?」
そう聞くと、彼は、どうしただろう。
 それから先しばらくのことは、ほとんど何も覚えていないのだ。
 その水煙との間のできごとが、何を意味していたのかということを、おぼろげながらでも悟ったのは、この家に来てからの事だ。
「嫁したからには、妻は夫の陰になり、もり立てるように勤めねばなりません。人のいるところでも、いないところでも」
娘々はそう言った。
「たとえそこが閨の中であっても、夫婦の和というものはみだりに乱してはならないものです」
あまりに抽象的で、芙龍はその意味を全然理解することができなかった。
「それじゃ、」
でも今は何となくわかる。風瀬様のお寂しそうなお顔って、その夫婦の輪の乱れたってことではないのかしら。私のなにかお嫌なところができたのかしら。芙龍はまたため息をついた。

 芙龍の重い心は、こんなことから爆発した。
 永寿をはじめて一族にお披露目した時のことであった。誰かが芙龍の膝の上の永寿をためつすがめつして、
「このお姫様はあまり、お館様に似ておられませんのね」
場が一瞬静まった。芙龍は、その不自然な空気にいぶかし気に燕淑のほうを振り向くと、彼女は母と顔を見合わせて、今にも泣き出しそうな顔をして青ざめていた。
「あ、いえ、公主によくお似になって、将来が有望な」
そういうことばも、後になっての付けたりにしか思えなかった。

 宴が引けてから、芙龍は、生まれて初めてとも言うべき激昂した態で燕淑を問い詰める。
「どういうこと? どういうこと? ねえ燕淑、どういうこと?」
ずっと青い顔のままの燕淑がとうとう平伏する。
「申し訳ありません!」
それ以上、何を聞いても、燕淑はくり返すだけだったところに、公主のただならない様子に燕淑の母・叔彩が飛び出してくる。
「公主、いかがなさいました」
だが、芙龍が何も言わない変わりに、叔彩の方でも一切を把握しているようだった。燕淑を下がらせてから、改まる。
「…よろしいですか、これから私が申し上げることは、決して口外なさいませんように。竜宮殿の万歳翁(娘々)におかれましても、彪龍の御一族にも、もちろん、姫様と公主御本人にも、公になりましては一利もないことでございますから」
「?」
 それからの、叔彩の言うことは、もちろん芙龍には返す言葉もなく呆然としてしかるべきことだった。
 龍の卵は半月ごとの満月が四回もやってくればうまれるものだ。予定の日を大幅に前にして生まれてきた永寿の成長を事情を知らない左右は憂えていたのである。だが。
「いまおそれながら私が考えていることがまこと公主の御事情であるなら、姫様は卵としておられた時間は十分、今後もお健やかにお育ちにはなりましょう。
ですが、申し上げにくいことですが」
「言って」
芙龍の声が焦ってくる。
「はい。
 私、先刻娘より、水煙と申す詩人のことを聞き及びました。
 よもやすると、姫様は、お館様のお子様でなく…」
叔彩はそこまで言って、「もう私にはこれ以上は」と、頭を下げた。だが芙龍は
「言って」
と促す。話す方にももちろん、聞く方にとっても酷なことに間違いはないはずだ。今まで信じていたものを崩すのである。
「…私が娘を産んだ時とも恐れながら引き合わせかんがみても、龍の卵のうまれる時期が公主のように早く、また遅いなどとは聞いたこともございません。
 公主、全ては私の娘の浅慮のいたすところでございます。お館様はこのことに気がついておられません。このことを公主がお心の苛みとなさいますれば、いつか事情にもお気付きになりましょう。公主、どうか、煩わしいことは全てこちらで処理いたします」
だが芙龍には、叔彩の言葉全てが恐ろしかった。

 ある時、いつになく吹っ切れた顔をして、芙龍は彪龍の訪問を受けていた。まるで絵の中の庭園の絵に描いたように麗しい一家族の体裁で、彪龍は久しぶりの公主の笑顔に安堵する。
「風瀬さま」
公主が口を開いた。
「風瀬さまは私の大切な人です」
「…おそれいります」
「このごろ、風瀬はお悩みの御様子で、その理由がもしかして私にあると考えると、この身が厭わしく思います」
「何をおっしゃいます。私が公主にかんして悩むとは。私は公主を託されたことに喜びと誇りを感じているのです」
「でも風瀬さま、とめないでくださいませ。永寿と一緒に、しばらくお側を離れます。
「公主?」

 彪龍が自由に使えるように整えてくれていた、市街地を少し離れた一族の別荘に、芙龍達が移るまでというのは、文字どおり逃げるようでそれは慌ただしかった。燕淑親子はついてくるのを固く辞退したが、
「でも燕淑、私あなたがいてくれないとなにもできないの」
という芙龍の言葉に、燕淑だけが随行することになった。