ぱー

 卵は、先に述べられたしかるべき方法で天地の気を与えない限り、孵化しないそうだ。
 美麗の回復をまって、一同は、離宮を離れ楓露山に向かう。卵が帰る頃には、龍神も揃うだろうと思われた。
「…美麗」
彼女の輿を守るように騎乗しながら、興龍が言葉をかけようとするが、呼び掛けの後何を言おうかと考えた一瞬、美麗の方が先に聞いてきた。輿の中で美麗は、自分の赤ん坊でも抱くように卵を抱えている。
「興龍、あなた、麒翔が驪龍皇子と知っていたの? 知ってたとして、どうして私に話してくれなかったの?」
「驪龍様のためにも、君に天亮様の二の舞いを踏んでもらいたくなかった。君は天亮様に似すぎているから、青龍様と相談した上で、麒翔の時であっても、君たちを近付けることに敏感にならざるを得なかった」
もっとも、俺は、天亮様を早くに亡くしたのがもとで驪龍様が御病気になったとしか知らないけどね。興龍が言うと、輿で美麗の差向いになっている大貴龍が言う。
「自分達こそが一番貴いと思っている血統の中に、劣った血が混じり込むのは、古今東西、あなたの世界でさえも、歓迎されないことは同じだと思います」
「そうね。今はそれなりに融通がきくみたいだけど、昔はそうだったみたいね」
「娘々のようなこちこちの龍に言わせれば、素人間は龍より遥かに歴史も浅いし、天地の気に感じる術も持たない退化した、あるいは劣った種族です。そのふたつの血統が混ざれば、程度の差はあれ龍の血は純粋のものが残らない。
 本来なら、お母上が角なしだった驪龍皇子は、亡き龍王陛下の庶子にもならないはずでした。それを、お母上へのご寵愛高じて庶子と認められた、そのことがそもそも娘々のカンにさわったのです。カンに触ったと同時に、うまく手の内に飛び込んだとも思ったでしょう。娘々は皇子にも継母にあたります。身内ならば、少々不条理に皇子の地位名声を落とさせたとしてもとがめる向きはありませんからね。
 お母上に続き、天亮様まで失われた驪龍様は、気を病んだことにして紫虚閣にこもられた。いつまでももつとは限りませんが、とりあえず、不審に思われるまえに、あなたが現れ、驪龍様もまた自信を取り戻された。それはそれでいいことでしょう。
 おそらく娘々は、すでに皇子が八龍神の一であることも御存じでしょう。真っ向から戦えば差しちがえになります。それでは、龍神の力を頼んだ娘々の野望にとっては本末転倒でしょうから、まずはそれ以外のことでこちら側を無力化する算段で入るはずです」
「…頭いたくなってきた」
「これは、あなたには、あなたが天亮様に似ていると言うこと以外は関係のないはなしです」
大貴龍は美麗にはそれ以上突っ込ませなかった。楓露山に入っていったので、それを突っ込む間もなかった。

 「おお美麗」
絢龍公主が出迎えてくれた。
「このたびの用向きはよくわかった」
美麗の腕の卵を抱えようとする。
「可愛い卵じゃ。露虹を思い出す」
「公主」
卵を抱えて嬉しそうにくるりと回る公主に、青龍がやや呆れた声をかける。
「…よかろうに少しぐらい」
公主は少し角口をして、
「まあいい、団体様御案内じゃ」
と、卵を抱えたまま歩き出す。

 境内の一角に、巫女が待ち受けている社があった。
「ここじゃ」
絢龍公主は卵を美麗に返し、社の扉を開けた。柔らかそうな布にそれ自体が光を放つような珠が鎮座している。だが、その場の一同が、嬉しくない意味で言葉をなくした。八つあるはずの珠なのに、揃っていないのである。
「美麗と青龍はすでに知っていると思う。賊が侵入した。龍神の目覚めるきっかけという世の乱れ、だが、龍神の目覚めこそが今回の世の乱れじゃ
 照誼(照龍)大姐から先日親書が届いた。…龍宮殿にて、龍神が三柱、よりましを得て目を覚ましたとか」
「ええ?」
美麗達はそれぞれ周りの顔を見合った。
「誰が、目を覚ましたのですか?」
「大姐の話によれば、聖檄神龍玲考覇、聖輝神龍烈忠覇、そして聖導神龍釈悌羅の、三柱」
「ちょっとまって下さい」
美麗が声を上げた。
「ここに残っているのは、四つですよね、ひとつ、数があわないですよ?」
「それでよいのじゃ、一つは早うに失われて、照誼大姐も見たことはない。
 それはそれとして、驪龍よ、」
絢龍公主は、ひとつ珠を取り出した。
「これが茜丹条宝玉、お前様の智覇の珠じゃ」
血のような、真っ赤な筋が、縦横に走るもので、驪龍の手に収まると、珠は、その手にしっくりと馴染むような大きさになる。
「今まで、珠がなくて、よく龍神とお前様と、養いおおせたの。
 ま、龍宮殿といい、楓露山、離宮とも、天地の気が溢れる場所にあるから、さほど苦労はしなかっただろうが」
一同が、驪龍の手の中で、紙一重に浮き上がってよりましに巡り合えたことを喜ぶように回っている珠を見る。だが、美麗だけは、眉根を寄せて、デジャヴュを頭から拭えずにいる。

 場所を客殿に移した。総ての珠も本殿に移された。絢龍公主が、卵を抱き締め、あやすように身体を揺らしながら語り始める。
「妾は桜霞山を再興したかった」
「桜霞山、というと、八龍神が育ったところですよね」
美麗があいづちを打つ。
「いかにも。ずいぶんと念入りに勉強したのじゃの。
 もともとこの国には、桜霞山と、この楓露山、二つの霊山があった。ここは龍王一族に始まるとおきみおやをまつり、桜霞山は八龍神ゆかりの地を珠とともに守っていた。
 だが、八龍神は、一度眠りにつくと、先の活躍が伝承になった頃まで目を覚まさぬことになる。必然的に、桜霞山は打ち捨てられるようになり、八龍神の珠も楓露山で預かるようになって久しいらしいのじゃ。
 妾と照誼大姐は、その桜霞山を再興したかったのじゃ。露虹がひとかどに成長した曉には、あの子を別当にして、な」
絢龍公主はそこまで言って、ぐるりと自分の甥達を見回した。特に驪龍を念入りに。
「でも妾は、その露虹を龍宮殿にいれた導龍哥哥(故龍王)を恨んではおらぬよ。
 青龍も、驪龍も、沙尚も芙陽もみなかわいい」
「…公主」
驪龍が、まだ何か言いたそうな絢龍公主を遮って
「別の場所で、あるいは我々と敵対する可能性が高い龍神達が目覚めているとあっては、お言葉ですが公主のお話を腰を落ち着けて聞いているヒマはないのです」
と早口に言った。
「慌てるなんとかは儲けが少ないのじゃぞ」
公主は世擦れたことを言い、美麗に向き直った。
「さて、ここと龍宮殿と、全部合わせても七つにしかならぬ珠の、失われている最後の一個は、…
美麗、お前様によりおわしている仁羅の珠じゃ」
「やっぱり」
美麗が、頭の中で探し物をしているように視線を迷わせながら言った。
「仁羅が、ここに来るまでに忘れものをして来たって言うのも、どう言うことか、わかったの。
 私、仁羅の珠の在り処を知っています」
「何と」
場がどよめき、驪龍と公主が詰め寄ってくる。
「そ、それで」
「珠はどこに?」
「私がもといた世界の、もといた国の、もといた町の、もといた家の、もといた部屋に、あります」
自分が持っていたあの珠の形や色を説明すると、絢龍公主は
「そうじゃ。瑠璃条宝玉こそが仁羅の珠じゃ」
公主が卓を乗り越えて、美麗の顔に自分の顔を寄せようとする。
「なれば、仁羅がかつて宣うた、一度お前様を戻さねばならぬと言うのも納得がいく」
取りに行かねばなるまいの。公主が言って、驪龍が場を煽る。
「ならば急ぎましょう。その間に、まだ目覚めていない龍神のよりましを発見させねば」
「そう簡単に言うがの、驪龍よ、天地の気は月の満ち欠けに左右されて濃くもなり薄くもなる。上弦はすぎたがまだまだ満月には早すぎる」
「そこをなんとか公主と楓露山の人員でお願いします。私は美麗と一緒に仁羅の珠の回収に向かいます」
「お前様がここにいてくれた方が助かるのじゃが」
絢龍公主は驪龍の言い出した方法に渋い顔をしたが、ややあってため息をついた。
「わかった。お前様に任せる」

 美麗の卵は、山頂の露台に向かう間の、小さいが瀟洒なほこらに安置された。天井に水晶の板が嵌め込まれ、月の光がよく入るようになっている。
「お前様達の仕事がどれだけかかるかはわからんが、帰る頃には孵り時じゃろ」
と公主は言った。

 山頂の露台で美麗の身体から抜けてきた仁羅の身体は、初めて見た時に比べて透けていなかった。
「待たせてしまったの」
と、美麗に言う。美麗は複雑な顔をして、
「早く連れいていって」
と言った。
「妾だけの力では、途中で消えてしまう。とにかく天気の地を補うに都合のいい珠を持っていないからの。
 ここは智覇どののお力を借りよう」
おなじく、驪龍の体から抜けた智覇は、実体すら持っていた。
「雲では生温い。ここは遠きみおやの姿で行くとしよう」
智覇は驪龍と示し合わせて、彼の身体に戻った。突然、空気が烈しく震えるような気がして、美麗は絢龍公主に抱き着いた。
「さあ乗れ」
目の前をおおい尽くすように、淡い月光に輝く黒いウロコがあった。顎の下に真っ赤な珠を浮かべて、漆黒の龍になった驪龍が美麗を振り返る。
 おそるおそるその前足のあたりによじ登り、ウロコだかヒレだかよくわからない背中のものを握った。
「失神するなよ」
驪龍が言って、気の流れに乗る。ぶわっと、急降下したジェットコースターがまた曲線の頂点に戻っていくような感覚がした。
「月に向かえ!」
智覇の声もした。

 すべてが逆戻りだった。
 いつの間にか下は雲海になって、その雲海が切れると、町の明かりが星空のように美麗の目を刺した。
「!」
美麗の身体は一瞬、地に吸い込まれそうになっていた。それを仁羅が引き止める。
「言いおくぞ、美麗」
そして言った。
「満月には近くなったが、完全に満ちてはおらぬ。それだけ、我々の開けた道は弱く、閉じるのも早い。長居はできぬぞ」
「わかったわ」
やがて、高速道路のだろうか。規則的にオレンジ色の光が龍のように横たわるのが見え、鉄道の白い光が見え、商店街や住宅街の街灯が見えてきた。
「降りよう」
驪龍が言い、高度を下げようとする。だが、そこは駅前のロータリー上空だった。まだ終電には早いらしく、サラリーマンの足早に、タクシーやら家族の出迎えやらに向かっていくのが見える。
「待って驪龍様、ここじゃ人が多すぎるから、もっとあっちに行って下さい」
自宅のある方向を指して、美麗は言う。
「どこに行けばいい、背中から指示されてもわからん」
「月を右に見て!」

 みなれた住宅街に降りた。驪龍がもとに戻る。
「?」
珍しそうにあたりを見回す。
「石の壁に石の道だ。…いや、石畳ではないのだな。なんだこの鉄の丸いものは? この石の柱はなんだ?」
住宅街は静かだった。美麗の家はその住宅街の中心からずれた場所にあるから、本当に静かだった。
自宅に真直ぐ向かおうとしている美麗だったが、驪龍はなにか変なものを見つけた。
「あれ、お前か?」
「え?」
見るなり美麗は固まった。
…探しています   去る◯年◯月◯日、自宅から行方不明になりました。…
という言葉と一緒に、自宅の住所と地元警察の名前が入っている。一年近く前に作られた立て看板のビニールはすすけてやぶれかけ、しみ込んだ雨水で中の紙はカビ始めていた。カラーコピーで拡大してはられた、高校の卒業写真が、湿気に歪んで笑っているようにみえた。
「よくできた似顔だな」
何と説明してもわかってもらえないだろうから、美麗はなま返事をした。
「なんと書いてあるのかわからん」
「突然姿を消したきりになったので、見つけたら知らせてもらえるようにと、私の親が作らせたもののようです」
「そうか、よい親を持ったな」
驪龍の言葉には、すこし羨みも入っていた。

 美麗の家は、その立て看板のすぐ近くだった。
「不用心だなあ」
と美麗はつい笑ってしまったが、美麗が消えた時の状態をそのままにしてあるのだろう、二階の窓が開いていた。驪龍のことだから、動物の飼育小屋だ、みたいなことを言うかもしれないと思ったが、規模は町家と大して変わるところはないから、それを見なれているのか彼は何も言わなかった。美麗は試しに雲を呼んでみた。すると案の定やってきたくれた。そうでなければ、自分が向こうに行くこともなかったのだから、予想通りで安心できるというものだ。
 美麗を乗せて、雲は二階の窓にそばづけた。部屋の中もそのままだった。少しほこりっぽくなっている他は、ほとんど変わっていない。
「えーと、」
位置さえ変わっていないならば、ベッドの枕上に仁羅の珠は置いてあるはずだ。まさかもらった時はこんなことになるとは思わなかった。あの骨董屋の老店主も、龍とつながりがあったのかしらん?とも思ったが、来る途中にちらりと見えた店は、アンティークショップに改装された様子もなく、沈黙を守っていた。
 とにかく、その珠も、そのままの場所にあった。手に取ると、何かが身体に吸い込まれてくるように感じる。今までにない高揚感が襲って、自分が浮くように感じた。仁羅も言葉なく感じ入っている。だが、ぐいと、手がひかれた。雲に投げ出され、見上げると、驪龍がまた龍になって、屋根にのぼっているのだろう、軒先から顔が出ている。
「道が閉じる! 急げ」
「は、はい」
珠を抱えて、驪龍の背中に飛び乗るや、驪龍は風のように、月に背を向けて翔け始めた。
 町が小さくなる。雲に隠れてゆく。涙が溢れてきて、袖で乱暴に顔を拭うと、化粧が落ちてどっちもみっともなくなった。

 「正直、あのままお前様が留まると言い出したらどうしようかと思った」
仁羅が言う。すでに、大龍神帝国の上空だった。そのまま楓露山の露台に戻るのも、その場の全員が忍びなかったので、緩やかな上空の風に任せてただよっていた。仁羅の珠が手許にあるせいなのか、それが天地の気なのか、清々しいものが身体じゅうを撫でていく。仁羅の存在が背中合わせに、ハッキリとその重みを感じた。
「乗りかけた船ですもの。
それに、私のもといた世界とこことが繋がっているのかもしれないと思うと、こっちが今乱れようとしているのが、それがいつか向こうにも感染っていくんじゃないのかな、と思うとどうしてもほおっておけないんです」
「さよか。いずれ妾のよりましぞ」
仁羅がほほほほと笑った。
「で、どうして、仁羅の珠は向こうに行ってしまったの?」
「よくわからぬ。お前様の世界もこの世界も我がものにできた希有なものがおったのだろう。たまたま盗賊か何かで横流ししたものがめぐり巡ったか」
仁羅は本当に嬉しそうだった。月は旅立った頃よりはより丸みを帯びたようで、仁羅も天をあおいで
「この具合なら、妾も他の龍神のよりましを見つける手伝いもできるか」
「ねえ仁羅」
美麗が尋ねる。
「いま何気なく言っちゃったけど、向こうとこっちって、そういうふうに繋がっているの? 地理的に繋がってるとは考えられないけれど」
「天の乱れは地の乱れ、神の乱れは人の乱れ、行き来できると言うからには何らかの形でつながりはあり、ここで起こる乱れが伝播することはないことではない」
「政治をまかされた人間が自分だけのことを考えて暴走を始めた、それを乱れと言うのなら、向こうの乱れがこっちに感染って、こっちの歴史では初めての女性の龍王が立っちゃったのかも、しれない」
「考えられないことではないな」
仁羅は返して、はるか、月の沈もうとする方向を眺めた。
「すっかり、塞がれてしまったの」
美麗も同じ方向を見たが、仁羅や智覇には見えるらしい「道」は、美麗には見えなかった。
 空間をこえる感覚と言うと、マンガやアニメのタイムマシンのようなものを想像していたが、全くそんな感じの起きなかったのが、美麗の後ろ髪の何よりの原因だった。ひょっとして、今すぐにでも、あの方向に向かえば、あの町の見なれた明かり達を見ることができるのではないかと思われた。美麗は月をずっと見つめていた。

 戻ってきても、祭祀はまだ続けられていた。
「公主、珠は自分でよりましを見つけられるって言いましたよね」
「月はほぼ満月じゃ、天地の気も濃くなって、条件は揃っている。
 …おそらく、燎哲(娘々)の妨害じゃ」
祭祀用の清楚な衣装に玉の汗を浮かべて、絢龍公主は頭をふった。
「この国をおおうばかりの気を飛ばして、よりましと珠との間に障壁を作っているのじゃ。
 美麗、珠を取り戻したのなら、龍神仁羅にも、お助け下さるようよくよく頼んでおくれ」
「願ってもない」
仁羅が答えて、美麗の身体からするりと離れる。衣装の裾の一端だけが長く美麗の背中のあたりに残っている。驪龍と智覇も同じような様子だ。
「お前様達は疲れておろうから、ゆっくり休むがよい。妾達なら、珠があればよいから」
二柱は祭祀の列に加わった。美麗の後ろには、いつの間にか大貴龍がいる。
「卵の様子を見ますか?」
「ええ」
つい即答してしまったが、そのあと、かたわらに驪龍が入るのに我にかえってその方を見る。驪龍は、別に俺に遠慮することでもあるまい、とでも言いたげに首をすくめた。

 卵は確実に大きくなっていた。両腕で抱き締めれば壊れそうなものが、今はその両腕も回らなくなってしまっている。
 卵からやってくるこの子は、一体どんな顔をしているのだろうかと思うと、殻が割れてもかまわない程強く抱き締めてあげたくなった。
「智覇は、この子に愛情を持ったら、辛いだけだといったわ。
 でもそんなことできない。そうでしょ? 母親が、腹をいためたわが子って言うその気持ちがよくわかるわ」
大貴龍は静かに美麗を見ていた。
「思抱といって」
そして言う。
「年によって生まれた卵は、親の念によって孵る。本来龍の生殖はそうでした。親と子の間にも、同じ天地の気の凝ったものという淡い連帯しかなかった。
 それを、今の方法に頼らざるを得なくなった時、我々の中で何かが違ってきた。龍とても、天地の歴史にくらべればまだ赤子のようなもの、これからいくらでも変わっていくでしょうけれど、少なくとも今の我々には、こうして殖えていくより術はないのです。
 それが吉なのか、凶なのか、私はわからないのがとても悔しい」
大貴龍の、珍しく冷静と感情のないまぜになった慌てた雰囲気が、美麗はすこしだけ気にかかったが、離宮の経営に粉骨砕身していることから疲労でもたまっているのだろうと簡単に思っていた。
 その大貴龍が、後ろの気配に気がついて向き直る。
「驪龍様」
「少しいいか」
美麗を呼んで、客殿までの道を歩く。
 「いつか、ここで会ったよな」
といった。
「お前と仁羅が初めて会った時だ」
「そうでしたっけ」
美麗は思い出せないそぶりをしたが、忘れたわけはなかった。まだ驪龍を一文人・麒翔としてしか知らなかった時、無闇に人の出入りできない場所に至極当たり前に現れた。何かたくさんの言いたそうにしていたことすべてを飲み込んで消えた麒翔を、今考えれば、その時点で、何か怪しいと思うべきだった。
「もしお前に時間があれば、あれを見せて、正体を名乗ってもよかったかもしれん」
客殿について、一室のトビラを開けて、中を見せられた美麗は、ぎよっとして、目の前にかけられた二本の掛け軸を見入った。
 ほとんど同じ顔立ちをした女性の姿絵が二つある。一つは楓露山の神官の衣装で、一つは気取らない清楚ないでたちで、同じように角は見当たらず憂悶を秘めた瞳が虚空を見つめる。何より美麗が肝を冷やしたのは、その女性達と美麗の顔にも、たいした違いのなかったことである。
「母・露虹と、…天亮だ」
母のことは絢龍公主から聞いているかもしれない。驪龍はそう言った。
「大姐と公主が、八龍神の聖地桜霞山を再興したいと考えておられたことを、父も知っていなかったわけではない。
 龍王としての誇りや、理性、建て前、そういうすべてが裸足で逃げ出す程、母の魅力は父を圧倒したのだ。
 角なしでありながら、破格の厚遇をこの楓露山で得て、ただでさえ恐縮している身に、その上龍王の寵愛とは、母にはきっと、辛かったのだ。娘々が攻撃しなくても、遅かれ早かれ母は押しつぶされていたかも知れない。 母のなきがらは眠っているようで、これほど美しいものはないと俺は子供心に思ったんだよ。
 それでも、母の死期を速めたのは娘々だ。娘々だけじゃない。龍宮殿で、父以外のすべてが母の敵だった。幸い父は、兄上や妹達が娘々の子供だから言って、あるいは俺が愛した母の子供だからといって、分け隔てなく可愛がってくれた。龍王の眷属は特別昔気質の龍の因子が残っているから、俺には龍王の息子として相応しい角があった。おかげであまり白い目で見られたことはなかったな。だが俺は、母の命を縮めた原因と少しでも考えられるものと接したくなかった。
 兄について、ある辺境の四足街に行った時、…この天亮に会った」