すー
言ったように、絢龍公主が兄・龍王に送った神託の中味は、渡された本人しかその内容は知るところではない。
だが、その内容を窺わせるには十分な事態が発生した。
政務から帰るなり、青龍はげっそりした顔で椅子に崩れ落ちる。
「きっと物わかりの悪い役人たちとさんざん言い争ってきたのでしょう」
過去の似たような様子であったときの原因を考えながら美麗が出迎えたところ、青龍は開口一番
「万歳翁は御位を退かれるそうだ!」
とはき捨てるように言った。
「ええ?」
美麗には、白水閣に訪れる時の好々爺振りしか知らないが、半世紀になんなんとする彼の治世のあいだ、これといった政争も民衆の反乱もないところを聞くだけなら、彼は希有な賢帝なのであろう。
その彼が位を退こうとしているということは、まさしく、一つの時代が終わるということだった。しかし、病は快方に向かっているというということだし、それが直接の退位の原因とは美麗には考えられない。
「かねてより覚悟はあった、だがこう急だと、戸惑うより術のない自分が情けない」
とうぜん、次代の龍王は、青龍天子(皇太子に相当)である青龍に決まるはずである。すでに白水閣には、代が変わっても、新しい龍王と顔をつないでおこうとする役人たちの姿がひきも切らない。だが青龍は彼等とは会おうとしなかった。
「そんなに急なお話しなのですか?」
ここで知識人ぶって言葉を発することは美麗にはそれこそ愚かしい行為に思えた。
「ああ。まだ万歳翁はお若くていらっしゃる。あと四半世紀は政に精を出されるものとばかり思っていた」
「御神託に関係あるのでしょうか」
「何?」
青龍が椅子の背もたれから頭をもたげる。それが発言を聞きとがめられたように思えて、美麗は思わず首をすくめた。だが、青龍は話に乗ってくる。
「なんだ、言ってくれ」
「はい。ただ、何となく、いつかの御神託の内容が、御代の交代を暗示した内容であるとして、万歳翁はそれに促されになられたのでは、と思いまして。
聞き流してください。そう思っただけなんですから」
「いや、その読みは鋭い。まったくなんて聡い女だ」
青龍は美麗の頭の回転に感服しているようだった。
「私の相談役として龍宮殿に出入りさせたいぐらいだ。
…冗談はそれにして、お前になら、あの神託の内容を話してもよかろう。ただし、口外はなしだ。信用するぞ」
『水は低きより高きに流れ、鳥が水底に遊び魚空を舞う。天にかかるは太陰にして、陽が砕けて後。燎原惨々として弔うものなし』
「世の中の全てが逆になる?」
「特にここを見ろ」
『天にかかるは太陰にして、陽が砕けて後。』
「太陽が砕けてからは、月が自ずから輝いて天を照らすとしか考えられん。
これに暗示されることが、私の憂えている仮説と一致せねばよい。だが、神託は絶対であるうえに、本来、吉凶どのようにも受け取れるものが、そのようにはっきりと何かを使えようとしてきていることは、絢龍公主にも始めてでおられたそうだ」
青龍はふう、とため息をついた。
「違わぬのなら、せめて遅くなって欲しい」
その言葉には重みがあった。
青龍も美麗も、あの予言がかなう限り遅く発動すればよいとこころをもんでいた。
だが、龍王の一族としては、あまりにも早く、あまりにも酷な事態は発生したのである。
天帝龍王・導龍臨眺子、崩御。
龍宮殿の金色の屋根は黒い布で覆われた。全ての官吏と侍女は黒い喪服を着た。
だが、姚妙の侍女が、喪服姿でも高らかに笑いながら、青龍を見舞う客を相手するため白水閣を歩いていくのを、美麗は苦々しい顔で見ていた。
あの侍女たちは、龍宮殿にいるとしても、龍王にあった事もなく、どことなく対岸の火事にしか思えないのだろう。だが美麗は、龍王の人柄に接しているので、なぜだか無性にせつなくなって、肩を振るわせてとうとう廊下の真ん中で泣き崩れてしまった。青龍がそれを見て、立たせながら言う。
「官吏達も所詮似たようなものだ。君の涙は何よりの手向けになる」
だが、臨終の席で、龍王の遺言を承ったはずの正宮彪氏・燎哲娘々は、青龍に対して即位の準備をするようにとの言葉を出さなかった。
そしてとうとう、青龍の懸念は、神託は、龍王の死後一ヵ月後、ここに実現された。
帝王が存在しないとき、あるいは該当者が若年等の理由で政治に関与不可能の場合、后・嗣子が登極せず政治をとることを「称制」という。
だが、今回の娘々の場合はそんな生易しいものではない。嗣子である青龍はとうに成人して、亡き龍王の右腕として、職分をはたしてきた。
それをしりぞけての登極である。「女主」という、この国の政治では未曾有の、空論でしか存在しなかったはずの最悪のパターンができ上がっていた。
ここだけの話し、龍王の一族の血統は始まって以来数千年、クーデターや政変の浮き目に遭遇することもなく、いってみればこの上のない安定したものであった。
当局は、これが政治にはどんなに悪いものかということを頭の上では重々解っていながら、対処の方法も見つからないままに娘々と、彪龍一族に飲み込まれてゆくしかなかったのである。
もっと正しくいえば、彪龍一族のほかに、入り込んできたものがいる。
美麗は、大龍や白水閣に訪れる官吏からしか情報を得ることは出来ないが、それをまとめるとこんな感じである。
その男は、今は帰化して瑠威趣龍と名乗っているが、もとはリシュリュー・コクーノ・ソニカーヤという、この大龍神帝国と南西に境を接する大貿易国・アルマージ王朝ナテレアサ王国の出身で、ナ国から派遣されて帝国との掛橋を勤める大使であった。勿論「龍」である。ナ国には、「龍」だけでなく、さま
ざまな動物にもう一つの肉体として変化させることが出来る「獣人」が多数いて、瑠威趣龍の家はその中ではかなりの名士の家柄に相当し、その先祖は、帝国の住人と同じではないかともいわれているのである。ナ国のことは別の機会に語ることもあるだろう。
さて、その瑠威趣龍、思う所あって最近、ナ国での地位を返上して帰化し、娘々登極と同時に宰相になった。それ以前から娘々は彼を公私に渡って頼り…つまりそういう事らしい。先ごろ、崩御直前に、慶事として娘々の懐妊が報じられたが、
「実の所はどうしたものやら」
興龍は言ってふう、と息をついた。
「龍王の喪は通例三年であるとする。だが今はどうだ。半年もたたぬうちに、まったく平時と同じ有様だ!」
そう憤る興龍の服装は、龍宮殿で華々しく武官を勤めていた頃の、もしものときのブラックフォーマルを手直ししたもので、興龍の性格によく似合う落ち着いた誠実さを醸し出している。
「娘々の仰せだ。『三年の服喪は民の心を荒れさせる。三月にすべし、民の明るい声と笑顔が、なによりの手向けとなろう』」
「詭弁にしか過ぎん! 三月とはあまりにも礼に悖る! 貴龍どの、あなたは公にも重き地位でありましょうものを、どうして娘々をお諌めしないのです!」
「出来るのならとうにそうしている。だが興龍、瑠威趣龍殿を娘々が重用なさる、その裏を返すとどういう事か、よく考えるとよかろう」
大龍の口調は、その仏頂面によく似合う重々しいものだった。
「どおりで、このごろ青龍様は白水閣にばかりおいでと思ったわ」
美麗が面々に茶を出しながらいう。
「万歳翁がおかくれになったのが、そんなに答えていらしたのかと思ってた」
彼女の知りたがりも、宮廷表向きに限れば厚い壁に阻まれて政局の中枢にまでもぐりこむことは至難の業のようだ。
「大龍、で、その瑠威趣龍という人は出来る人のなの」
「まだ多少混乱はしていますが…不満はまだ聞きませんね」
大龍は首をかしげた。
「そのうち出るさ、どんどんね」
興龍が、飲み干した湯飲みを乱暴に卓に置くと、がちん、と欠けそうな音を立てた。
あまり考えたくないことではあるが、娘々は国を私物化し始めている。
青龍一派は、追いやられた凌雲殿の金色の屋根をはるかに、苦々しく見ながら気をもむことしかできなかった。
「美麗、お前が受けてきた異国の教育なら、こんな時にはどうすればよいと教えられた?」
珍しく青龍は弱り果てた顔で尋ねてきた。
「凌雲殿に私の居場所はない。私についてきてくれていたものは全て娘々に取り込まれた。お前かいつか言っていた、これが『四面楚歌』というモノなのだな」
美麗が、自分のような者の言葉が参考になるのかと聞くと、青龍は
「これという道を差し示すものがあるのなら、それが例えアリ一匹であっても私はすがりたい。
お前は、時に信じられんほど聡い考えをする。何か名案はないか」
といった。
美麗はぐるぐると頭を回転させ、例になりそうなものがないか思い出そうとした。だがこんなときに限って、頭の回転はすこぶる芳しくない。高校のときにちょっとやった古典の授業が思い出された。
「まだ、青龍様の処分について、娘々の方からは何もないのですか?」
「処分?」
「例えば、青龍天子の身分をはく奪されるとか、そこまで行かなくても、このままここにいてはプライドが台無しになるようなことが、ありませんか?」
「ぷらいどとは何だ」
美麗はついカタカナ語を出してしまて、おっと、と言い直す。
「娘々が何かして、それで青龍様が見損なわれてしまったというようなことはありませんでした?」
「いや。大貴龍の話によれば、龍宮殿からの閉め出しは、表向きは父の喪に服する体裁になってるらしい。
今娘々はいよいよ産の床にあるらしい。娘々が動けなければ官吏達もたとえ瑠威趣龍でも、私達に強い態度は示せないな」
美麗は首をかしげた。こんなクーデターまがいのことに遭遇したのは全くと言っていいほどない官吏達のことだから、官吏達の間でねちねちやることは知っていも、あわや二人の王が立つと言うのに応用を利かせられないものなのだろうか。
それなやることをやってしまうに限る。目の前の、一見昼行灯ののほほんとした風体の青龍を光源氏にするのは無理があるような気もしたが、この際美醜は問題ではない。
「何の解決にもならないとは思いますが」
「何だ」
「青龍様のように同じよう窮地に追いやられた人がいまして、その人は元よりの無実を証明するために、すすんで政治の一切合財から身をひいて都を出たという話しがあります。後になって見事無実は立証されて返り咲いたということですが」
フィクションの話ですし、当てにはなりませんよ… といい続けようとしたが、、青龍の決断は早かった。
後になって聞けば、早晩、青龍とその一派を謀反を企てようとしたカドで弾劾されることは決まっていたらしい。獅子の牙を間一髪でしのいだ兎の心境であったが、白水閣は出立の準備でごった返していた。
「やれやれ、ほんの半年程度しか住んでいないのに、どうしてこうモノって溜まっていくのかしら」
美麗も、部屋を引き払うために荷物の整頓をしていた。くるときは日用品と着替えの風呂敷が一つだけだったのに、自分専用の筆記用具や茶器や書物もあるし、服は姚妙や沙龍の下賜で増える一方であったし、興龍や麒翔が調達してきた装身具は両手からこぼれ落ちた。
「うーん」
美麗はそれを、全部箱の中に押し込んで、最後に、「美麗」と自筆の金釘流の札を取り付けた。後は本当に当座必要になるものだけが残る。ホコリが立って、美麗は大きなくしゃみを一つした。
「疲れちゃった」
欠伸して、寝台の上に仰向けになった。
大丈夫なのかしら、青龍様は、私の言う事を鵜呑みにしてしまって。半分は、美麗にもかかわる自分の主人の動静であるから心配であったが、半分は、今までのこともあるし、今回もきっと、いい様に回転していくに違いないと考えた。そしてそのまま仮眠になだれ込んだ。
それが、夢の中に、誰か非常に存在感ある人物が飛び込んでくるような錯覚を覚えた。目を覚ましはしなかったが、人物の気配は、何かに対して文句をいっているようだった。
「やれやれ、やっと追い付いた。当代のよりましはなんともイケズなことよ」
なんのことだか、美麗にはさっぱり分からなかった。ただ声は、録音した自分の声がしゃべっているような感じでなんともおかしい。
「何はともあれ、帰ることは出来た。…おお、身体が透けておる。じゃがこの身体にはまだ天地の気が足りぬ。はよう目覚めさせねば」
独り言にしてはずいぶん大声で、美麗は頭の中をぐちゃぐちゃにかき回されるような違和感を覚えて、無理やりに目をあけた。
「…?」
だが、すっかり殺風景になった部屋の中には、誰もいない。
「夢か」
美麗は寝跡の出来た頬を手のひらで無造作にこすった。
明日はいよいよ、龍宮殿から馬で半日というところの離宮に発つという夜、白水閣では盛大に文人が集められた。その中には勿論麒翔もいて、気の聞いた一首を作っては周囲に感じ入れられていた。
そして宴がひけてから、興龍に連れられて麒翔がやってくる。
「これからは会いにくくなるね」
開口一番、挨拶もなしに麒翔は言う。
「そうねぇ」
美麗は鷹揚に返したが、そんな会話の逐一を、一歩離れて興龍が聞いている。
「ゆっくり口説く暇もなかったよ」
「ちょっとちょっと」
「お前一体美麗に何をした?」
「いや、二人きりで茶の一杯も飲む時間はなかったねと」
「あたりまえだ、そんな事が許せるか」
美麗は、興龍と麒翔のささくれの皮をむくような会話を、目を左右に向けながら聞いている。
今は本人達の手前何も話さないが、最近気がつき始めた事といえば、「どうもこの二人、私に対して気があるみたいね」。こっちの住人は感情は結構素直に出す様だと美麗は思っている。だから、美麗をどうにか口説こうとする麒翔を興龍が牽制するという図式の、双方の意図についても、自分の独占が目標であるとは、女の身にすれば気分の悪いことではない。とにかく、(特に、別れたカレシとの因縁のある)興龍にあともう一押しでもされれば、ひょっとしたら降参するかもしれない。でもそれもなんだか悪くない。子供とか、そういう心配は後でもいいだろう。
ところが、そこに大龍がやってきて、興龍を呼び立てた。興龍は美麗を見、そして麒翔を見、やっぱり美麗の袖口をとった。だが麒翔は、それを見ていても、
「で、美麗」
と話しを続けようとしている。美麗はどっちとも目が離せず、ロンパリになりそうだった。これは結構な修羅場だ。だが、興龍の負けだったようだ。再び、今度は少し強く、大龍に呼ばれて、彼はしぶしぶ袖口の手を離し、消えてゆく。
気配すらもなくなったところを確認して、麒翔が言った。
「これからもこんな感じで会いに来ていいかな?」
「青龍様の所に参上すれば、自動的に会えるとは思うけど」
「いやそうじゃなくて」
麒翔は珍しく面を伏せがちで、腕を組む。半分落ちた眼鏡も直さずにいる彼の次の言葉を、美麗は待っていたが、それからはまるで一陣の風のようで、にわかには何がおこっているのかわからなかった。しかしその風景は、満月にはまだ早い月が、早々にかたむいている薄い月光と、灯され始めた灯篭の灯りに、秋草の露が輝いて、なんとも哀れをさそうなかで、目の前の女を固く抱く男があるという一幅の絵のようだった。
「こんなこと久しぶりだよ。自分の分身みたいに思えるひとが、今目の前にいる」
「麒翔…」
麒翔は美麗の髪に顔をうずめている。
「天子や大貴龍殿や興龍が君と私とを遠ざけたいその理由がわからない」
「…」
頭の先から足の先まで、原因不明の震えが駆けた。麒翔は直立不動の美麗の額に一つ口づける。眼鏡の金具がひや、と触れた。
「私の気持ちをわかってくれているよね?」
「…」
「わかってくれているのなら、私はそれ以上は聞かないよ。
…元気で」
麒翔は舌をならし雲を呼ぶと、ひらりと飛び乗って去っていった。
その夜のあけぬうちに、馬車の一団が白水閣を出た。昼前には向こうについてしまう中途半端な時間だったが、事を荒立てたくないという青龍の指図によるものだ。
法律によってつけられていた官吏や召使は、貴龍兄弟以外は全部白水閣に残すことにして、私的な使用人だけをともなう。馬車は二台あって、一台は青龍と姚妙、彼等の子供たち、その乳母が乗り、次の車には使用人と大龍が乗る。美麗はその後ろの、興龍が御する荷馬車に、荷物と同化していた。麒翔との一件から正味十時間程度しか経っていない。あの簡単な接吻一つで、信じられないほど美麗の身体は緊張していた。「何か薬でも使われたかしらん」、と美麗は半開きの唇の奥の奥の方でいまいましそうにつぶやいてみた。
「どうしたんだ、元気ないじゃないか。いつもならうんざりするほど話しかけてくるのに」
「んー」
美麗はけだるそうに居ずまいを直した。
「私が言い出したこととはいえ、こんな、青龍様が、逃げるようにしてあそこを出ていかれるなんて、想像出来なくて」
「だが、君のいたところの歴史の上では、その人は返り咲いたのだろう?」
「歴史じゃない。作り話よ。どうであれその人本人が、それまでに帰るという目的に向かって努力したかなんて事は知らないわ。田舎に遁世したものの、現地でオンナ作ってるし」
「はは、でも、英雄色を好むのは万国共通だな」
興龍は笑ったが、その笑い声には芯がなかった。案の定、一息ついて、興龍は言う。
「麒翔とはあれから、どうだった?」
「え? …別に」
美麗は、それが長く自分の身体に余韻を残しているという現象以外には、あの一件について、特に深く考えるところはなかった。場所が離宮に変わるだけで、本当に青龍に対して志を持っているものはその元に集うだろう。麒翔も。彼は長い別れになるような言い方をして去っていったが、美麗の方は、あれが最後の別れとは思えなかった。
「元気でって、言われたわ」
「他には?」
「…そんなに彼の事が信用ならないの? 大丈夫よ。あなたや青龍様が考えている様なことは全くなかったから」
「…そう。…ごめん」
興龍は前を向き直った。捨ておけない状態だと向こうが気をもんでいるのはわかっている。だが今の興龍の態度はあまりにもあまりだった。
「確かに、配慮がなかった」
「ねえ興龍」
美麗はこの話題から脱出したくなった。
「私達、大丈夫よね?」
「離宮に赴くという案を出したのは君だ。その君が自信を持てなくてどうする」
「うまくいくとは限らないじゃない。引き合いに出した人は剛運の持ち主だったのよ」
私達は神様じゃないもの、転ばぬ先の杖なんて、絶対に立てられない。美麗は力なく言って、また荷物に同化して眠るようだった。

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