さん
その芙龍公主の降嫁が告げられた。龍王でさえ寝耳の水であった。
「そなたがまだ早いと言い続けておったから、成人の儀式さえしてはおらなんだものを、降嫁とはそれこそ時期尚早ではないのか」
龍王はそう言って、かたわらの燎哲娘々に不審の目を向けた。
「先日、妾の里から、総領の代替わりという慶事が伝えられまして、妾からの祝ということで思い立った次第でございます」
娘々は厳かに言った。
「お許しさえあれば、一切の準備は、妾の方で整えまする。万歳翁のお手をわずらわすことはございませんでしょう」
「正宮よ、それはさすがに、嫁の父としてはいかにも義に欠ける。こちらのほうでも何か整えさせよう。考えてみれば、そなたの家は、宰相・正宮を多く輩する。この降嫁でさらに箔がつこうというものぞ」
娘々が芙龍公主に施した花嫁教育は、こうして本人の介在なしに決められた縁談に対して、疑いなく容れるべき旨を謳っている。だから芙龍は
「わかりました、お母様」
と、ろうたげに首をかしげた。
「そうなれば、よその家に嫁ぐ娘がいつまでも母の元にいるということは喜ばしいことではありませんね。
後宮の玉華殿をお前のために整えさせましょう。
よろしいこと、芙陽? 先方に佳き家人となるために、精進を怠ってはなりませんよ」
「はい」
芙龍はその時悟らなかったが、娘々は暗に、青龍や沙龍との必要以上の交流をもつことを戒めたのだ。こう言っておけば、芙龍についている侍女たちは主人の外出に制限を与えよう。
色を染める前の白絹は、白ければ白いほどよい。
だが芙龍の侍女のなかには、人形のような芙龍を心から憂えているものも多い。彼女の学友も勤める燕淑は、娘々やそれに与する侍女の間では些細だが一言多いお調子者だと写っていた。それをとがめられると、芙龍は後で、
「私は大丈夫なのよ。あなたのお話しは面白いから、私いつも楽しみにしているの」
と燕淑を持ち上げてくれる。
「あなたがいなければ、私、お食事を残したり、ほんのちょっと書き損じた紙をすぐ捨てるようなことにしていたかもしれないわ」
「公主」
「ねえ燕淑」
芙龍はくるくると瞳を輝かせた。
「お使いして」
「…は」
燕淑は心臓をひときわ高鳴らせた。
「降嫁が決まったことをお知らせしたいの。一緒にお祝いして欲しくて」
「畏まりました」
燕淑は答えはしたが、先方に対してこれ以上冷たい仕打ちはないと思った。抜き身の刃物は、たやすく人を傷つける。すべて、芙龍に起こることを喜んでくれるとは、限らないのだ。
芙龍の手紙に対して、先方がこういう反応をしてくることは、考えてしかるべきだった。
龍宮殿の別の部署に使える官吏・波龍源は、詩人・水煙という号を持つ白水閣の食客の一人でもある。とにかく彼は香の染みた柔らかい手紙の便箋をぐしゃりと握りつぶした。そしてその拳の上に突っ伏すことしばし。
「燕淑」
と顔をあげた。
「決めた」
「なにを」
「手引きしてくれ」
「冗談言わないでよ!」
燕淑はガタリと立ち上がった。
「いくら私が常々公主のもの知らずを憂えているからって、それにまでよしとは言えないわ」
「それじゃ、芙龍公主のお相手ってのは誰なんだよ」
「彪龍風瀬子さま。公主のおハトコ様、娘々のご実家の若総領様よ」
「知っている。天子様もいらっしゃるところで汗水ながした自身作を披露したら、こき下ろされた。風流のフの字もわからないで通ぶる奴が、公主のお相手なのか!」
「悪いことは言わないわ、水煙さん。それこそ本当に公主のおためにならないし、暴露されたらあなたの命が危ないのよ!」
「止めるなよ。
何が本当の幸せか、公主に教えてさしあげるのが、今の俺に与えられた天啓だ。そんな気がする」
「なにがテンケイよ。男の身勝手だわ」
燕淑ははや部屋を出ていくようだった。
「私だけじゃなく、私の母も娘々に仕えているの。全て明らかになった暁には、私も、私の母も、当然公主も回りの非難を浴びることはここで説明するまでもないわ。大勢があなたのために迷惑を被るのよ、
それを考えてちょうだいよ」
女が欲しいなら花街に行けば? 燕淑は一言言い捨てて、白水館を出て行く。
青龍の住む白水閣には、世の東西を問わず本当に多くの人物が出入りする。上は貴族から、下は放浪の旅人まで、三日とあけず常に滞在する客人があり、あの水煙のように自宅より足繁く通うものもあり、年中行事のように毎年来る者もあり、青龍は本当に多くの人物と話をした。
例えば今日の客人はそんなリピーターの一人だった。青龍と共通の師匠を持つ自称怪物退治のエキスパートで、彼はまず、来る時期の遅れたことを青龍に謝り(それもいわゆるタメ口なのである)、一番新しい冒険を語ってくれた。寡黙そうに見えたが、美麗はつい、彼の話に引き込まれた。彼が怪物の正体と知りながら、美少女と恋に堕ちずにはいられなかったというくだりでは、袖が濡れるほど涙してしまった。彼は師匠にあった後、また冒険を求めて旅に出るという。
とにかく、そんなような毎日のおかげで、美麗は刺激的な生活を送っていた。元の世界に帰りたいと見えない駄々をこねることも忘れていた。
さて。
青龍は、日本で言えば宮内庁の様な役所から、法律に準じて使用人を派遣してもらっているが、それ以外の、美麗もそうだが、個人的に雇っている使用人も多かった。
彼女は白水閣のなかを動き回るそんな官吏やら使用人やらのいく人かとも顔見知りになった。
数日後の美麗の休暇に、龍宮殿の周辺の繁華街を案内してもらう約束を取り付けた興龍修も、その友人の一人である。
最初彼をみたとき、イくところまでイっておきながら結局別れてしまったカレシ(発音は平坦に)を思い出した。広い世界には同じ顔が七つあるというし、もう切れた男だし、美麗は割り切ってつとめて平静に彼に接した。ただ違うところといえば、あの男の、並んで歩いていてもナンパの視線定まらなかったような浮わつく所などない誠実な人柄が興龍にはあり、青龍の信頼もある、美麗にとってはなかなかに好いたらしいキャラクターであるということだ。事実彼は、美麗が休暇なのにいくあてがないと言ったところ、
「たいそうに考えなくても、一歩ここを出れば面白いものはいっぱいあるもんだよ」
と言い、そのために、自分も一日暇をもらったようだ。でも美麗は、一日彼と二人でいることにはすこし後ろめたいものを感じていた。誘導尋問にかけて過去についての美麗の口を滑らせた大貴龍は、
「それなら、浩(小貴龍)を連れていきなさい」
と、珍しく笑顔で言った。
「それなら私も一日ゆっくり仕事が出来るというものです」
「話に聞いたのだけど、龍宮殿に仕えていたって本当? 興龍」
話しかけるにも話題が見つからなくて、美麗はそんなことを聞いていた。
「本当だよ」
興龍は一瞬言い出しにくそうな顔をしたが、あっさり答えた。
「宰相を出せる三つの家があってね」
興龍一族、貴龍一族、彪龍一族。この三つが、互いを補い、あるいは牽制しあうために、龍王の名の元に賢明な政治が長いこと続いていた。
ところが、ここ十数年ばかりは、燎哲娘々の実家の彪龍一族の力が大きくなってきている。過去にも、家の盛衰にあわせて宮廷の発言力に格差が出来たことは何度かあったが、激しく他家に水をあけたことはなかった。
時の宰相を擁していた興龍一家はそれをかなり露骨に牽制した。賢明なる政治のためには致し方のないことだったという。そして彪龍一族はそれを逆手にとった。たまたま公になった不祥事の責任を全て興龍一族に押し付けた。
興龍一族は龍宮殿から遂われた。総領息子で宰相への登竜門に立ったばかりだった興龍修本人も同様である。青龍は若い彼の将来までも閉ざしてしまうには忍びないと、使用人の一人に取り上げてくれたという。
「現在の宰相には、娘々の弟が就いている。だが、天子が登極されれば貴龍殿が宰相になる。貴龍殿は若い世代で彪龍一族とのなんだかんだもない。そのうち私にも運が向いてこようということさ」
来るであろう報われるときに向かって、今は雌伏の時期なのだ、と、彼の目は輝いていた。
「あまりいい話ではなかったね」
「そんなことないです」
美麗は興奮醒めやらぬテイで返した。根のほうで踏ん張りながら先のほうがかれになびいているありさまだ。
「それにしてもさぁ、興龍は少し堅いよ。もっと遊び心をもたなくちゃ」
小貴龍がいった。
「性分かもしれないなあ」
興龍は唸った。
道端の三人を、夕日が照らして、帰る時間の近いことを教えていた。
そこに。
「興龍か?」
と声がしたので、三人は振り向く。
「麒翔さん!」
小龍が声をあげて呼びかけた人物の元にかけていく。人物より先に、傾く夕日が目に入って、美麗は人物の顔を確認出来なかった。
「どうしたのさ、ずっと来ないから、心配してたんだよ」
「うん、あちこちを回っていたんだ」
ふと目を上げれば、興龍は人物の顔を、眉根を寄せてみている。逆光だけが理由ではないようだ。
「興龍」
再び人物が声をかけた。
「久しぶりに会ったのに、そんな顔をすることはないだろう」
「いや、太陽が目に入っただけだ。…久しいな、麒翔」
「覚えていてくれたとは痛み入るよ」
麒翔と名乗り呼ばれる人物は、小龍に続き美麗達に近付いてくる。
「いままで、どこにいっていた?」
「陸の果てから空の果てまでいってきたさ」
その風采は、青龍のもとに集ってくるほかの食客と大差なかった。無造作に、伸びた髪を一つにまとめて、胸の当たりに垂らし、豪華ではないが清潔そうな服を着て、道すがらでも浮かんだ言葉を逃すまいと、矢立(携帯用の筆記用具)を手にぶらさげている。変わっているとすれば、彼は眼鏡もかけていたが、度が入っている様子はない。
「どうして、戻ってきた?」
「そんなことを聞くのか。つれないな、興龍は」
皮肉らしい興龍の言葉に、麒翔は笑う。
「どうしてなんて、野暮じゃないか。帰ってきてはいけないのかい?」
二人の会話を、小龍はただの会話として聞いているようだ。
「だれなの、あの人?」
聞く美麗に、小龍が答えようとするが、それより速く、
「美しいお方、僭越ながらわたし本人がお答え致しましょう。
私の名は麒翔。白水閣にすだく食客の一に名を連ねております。思う所会って、諸国を漫遊して、見聞を広めて参りました。
そしてわたしの素性を知りたいという美しい貴女はいずこの華か」
美麗はその言葉に全く警戒なく笑ってしまった。
「面白いひとね」
「おそれいります」
麒翔は会釈をした。
「私は美麗。青龍様のご成婚のあと白水閣に来たの」
「おお、千歳が」
麒翔はひとしきり唸る。
「それはぜひ、参上してお祝に一首献上せねば」
これから白水閣に戻るという美麗達に、どうも麒翔はついて行きたい様だったが、興龍の晴れぬ顔を窺ったか、
「興龍、近いうちに参上する。千歳によろしく」
「ああ、斧の柄が朽ちた頃来い」
興龍の最上級の皮肉(「一昨日来い!」)に何か軽口をたたきながら首をすくめて、去りしな、
「では姑娘、白水閣で」
と言う。
美麗は、麒翔に遭遇している間の興龍の態度があまりにもいい物ではなかったので、もう少し詳しい彼の人となりについては聞くのをためらった。が、興龍は、それより先に、
「美麗、あの男には気をつけろ」
と言った。
「どうして?」
正直の所、麒翔について、美麗には、興龍が苦虫を噛みつぶし、皮肉を連発するほど、警戒すべき人物には思えなかった。確かに、立ち居は少し軽薄そうに思えはしたが、そういえばインテリらしさも少しは感じられたか、とそう見ていた。
だが、興龍は、性格がどうだという以上に、何か許せないものがあるらしい。
「千歳や大貴龍殿が共にいる場所以外で彼に会おうとするな。呼び出されても断われ。いいな」
興龍は捨てるようにいい、美麗を白水閣に送り届けるまで、口を開こうとしなかった。
大龍に話を聞いても、以前は白水閣に出入りしていた文人で、この頃はとんと御無沙汰であったという以外に情報は得られなかった。そして、興龍の様にあからさまではなかったが、やっぱりいい顔をしなかった。あの様子からするとひょっとして、過去に青龍の顔がつぶれるほどの派手な女性問題をしでかしたのだろうと美麗はいつものように、そういう事にしておいた。
麒翔は、さほど日をおかずに、白水閣に現われた。青龍は、彼の朗詠をだまって聞いていた。いつもは、その後に何かと批評を下すのに、それすらしなかった。彼の好みをまだ完全に把握はしていないが、特に青龍が嫌うような点もなかったように感じられたが。
文人たちがひけて、美麗が後片付けをしていると、建物の入り口に老人が一人たっているのを見た。
「?」
ひょっとして、青龍に招かれたうちの一人だろうか。
「どうかいたしました? あいにく、もう朗詠の会は終わってしまいましたの」
「ああ、わしはいっこうにかまわないぞ」
老人は、すたすたと中に入っていこうとする。一晩の宿を乞う食客であっても、こんな無礼なことはない。
「あ、あの、待ってください」
美麗がうろたえていると、ちょうど大龍が通ろうとしていた。
「大龍〜」
「どうしました」
「このおじいちゃん、入って来ちゃったの」
「え?」
大龍はきざはしを降りて、美麗が背中を押す老人の姿をしげしげと眺めて、やおら平伏した。
「万歳翁!」
「え?」
「美麗っ 千歳をお呼びしろっ! 早くっ」
「はっはい」
龍王の突然の訪問もさりながら、その万歳翁に対して事もあろうに食客の老詩人扱いをしたということで、美麗は自分の首の皮が空寒くなってゆくのを覚えた。青龍が飛び出して来て、
「万歳翁の突然のご来臨…」
と、彼までもが地面に諸膝をついた。
「なんと灑龍(青龍天子の本名は灑龍富都子という)、白水閣ではそれはなしと以前から申し渡してあるではないか」
「は、しかし」
「よい。わしがよいというのだ。使用人たちにも面を上げさせろ」
「は」
青龍が促してやっと美麗たちも顔を上げた。
「不審な者はすぐには中にいれない、よい心がけではないか」
「…この者はやってきて日も浅く、万…父上には御無礼をつかまつりました」
ほれ。促されて、美麗は再び頭を下げた。
「申し訳ありません!」
「ほほほ。よいよ。わしは一向に気にしておらん。新しい娘が入ってくれば必ず一度はそうあしらわれる」
龍王は笑って、青龍に、
「ここ待て歩いてきてつかれた。茶の一杯でも飲ませてくれ」
と言った。
「は、」
青龍が、先に立って龍王を先導していく。美麗はその背中を見送りながら、大龍に言う。
「どう見ても、あれじゃ青龍様のお祖父様ね」
「滅多なことを」
大龍はそれに軽い叱責を加える。
「…ただ、龍と言うものはいったん成長が止まれば老化はしません。かえって外見だけなら自在に変化できます。寿命も二百年ほどは軽く生きます。『角なし』や素人間は、年相応に老いるし、寿命もそれなりに短いのですが…」
そして、少し遠い目をした。美麗はそれを見上げて少しいぶかしんだが、
「美麗、茶はどこだ!」
という青龍の声に我に帰った。
龍王は、ちょくちょく来ているらしかった。時に顔すら変えてくることもあるらしい。以外とそれが麒翔の本性なのかもしれない。それでは、どうして青龍や大龍がつれなくする必然性や、特権があるだろう。龍王が麒翔である説はあっさりと破綻した。ただ、こんな事を考える必要はすぐなくなった。龍王は全く好々爺ぶりをいかんなく発揮して時々あの老人の格好で現われては、食客たちと清談に遊ぶのである。食客たちも、突然現われて講釈をたれてゆくこの老人を歓迎はしても疎んじることはなかった。美麗も、あの骨董屋の主人が側にいるような感覚で、気さくに接しつつすごしていたのである。
その龍王が、この頃体の調子が思わしくないらしい。本の数日のうちに起きる事もならないほど衰弱したという。そのために、半月ごとの満月に行われる特別な祭祀が行われなかった。
それを心配していた矢先に、 青龍が、美麗を供にして楓露山という場所に向かった。美麗が抱いていたイメージ通りだとすれば、次の龍王を約束された人物の外出なら、もっと派手であってしかるべきだろうが、実際には、貴龍兄弟、そして黄龍などといった本当に近い限りのものだけをともなったお忍びといってもいい出で立ちであった。
まさかこの馬車の中に皇太子である人物がましましていようとは、山に続く道を往来したり、その両脇で商売したりする民衆は絶対に気がつくまい。
そこまでして人目を隠す理由が一体どこにあるのか、美麗の雰囲気は一行にうっとうしいほどに伝わったようだ。
「聞けば幼くして異国に渡ったというから、知らぬとも無理はあるまい」
青龍が言う。大貴龍は口元に笑みを浮かべながら説明した。
「あの場所は、開祖からの龍王の一族を代々祭る場所です。先祖の前では、子孫は奢り高ぶり礼を欠いてはならない。それについてはどこにいってもおなじです。その気持ちを外見をそう整えることで現わすのです」
「特にこの度は、御不例で自由に身動きをとることかなわぬ万歳翁の名代でこうしてきている。
この楓露山をあずかる絢龍公主はその妹姫、幼くより御先祖の言葉に耳を傾け、巫女としても右に並ぶものはないお方。そのお方が火急に伝えたいというからには、大事なことなのだろう」
先祖がそのまま神というのなら、言ってみれば、先祖からの言葉と言うのは神託である。書面にしたためられて手渡されるそれは、龍王本人のみに開けることの許されるものであるそうだ。
「とはいえ私は、今龍宮殿を離れたくはないのだが」
「天子」
青龍が口をこぼそうと口を歪める。大貴龍がそれをとがめた。
「ああ、そうだ」
聞けば絢龍公主は、疎の言葉を聞き、書き留めたとたん、その内容のあまりの恐ろしさに昏倒して、起き上がることもままならぬということで、厳重に封をしたその親書を渡したのは別の巫女だった。
「絢龍公主様は、この信託を大変気にかけておいでです」
「うむ。とはいえ、恐ろしいものでないことを祈るよ」
青龍はそれを、漆に黒光りする箱のなかに納めた。
「お前は例によって中味を知りたがるだろうが、」
それを覗き込む美麗に釘を刺す。
「お前など持ってのほか、私が封を切ることも差し出がましい国家の重要機密だ。万歳翁のお口に登まで、これは知らないことにするべきだ」
そそくさと立ち上がった。
「帰ろう」
神託の内容は、龍王の腹一つに納められた。内容を美麗たちが知ることが出来るまで、もう少し時間が必要になる。
芙龍公主の降嫁は、その直後で、この慶事が公になった期日から鑑みれば、超特急といえる早さだった。半可通の間では、これでは何かの厄介払いではないかという言葉も聞こえたほどだ。
だが美麗は、白水閣に沙龍公主の来訪を受けて、ふたりして重く考えこんでいた。いま彼女らの知る出来事が公になれば、それこそとんでもないことになる。芙龍公主自身のこけんにもかかわるし、何より龍王一家と家臣との信頼にもひびをいれる事態になる。よしんばそうならなくても、家臣同士の痛くない腹の探りあいになることは必上だった。
話は数日前にさかのぼる。
事件当夜、後宮は恐ろしいほど静かだった。明鏡殿に向かう道を、沙龍と美麗、そして沙龍の侍女の飛鷲が歩いていた。折りからの満月は、狭い廊にもくまなく差し込み、
「灯りは必要ないようですね」
飛鷲は持っていた灯りを吹き消した。沙龍は、まだ白水かくでたたかわれていた清談に酔っていた。青龍の食客が、満月を口実に多数集まり、夜の更けるのも忘れていたのである。
「娘々が側にいるのでは、こうはいかないのよ。娘々は女にもこういう知識が必要な事をわかっていないのよね」
くるくると身を踊らせながら、私もいつか、国を出て旅をするの、と沙龍は言った。照龍大姐みたいに。耳ばかり肥えた沙龍ではあるが、本人は龍宮殿すら出たことはないのだ。飛鷲は主人を横目で見て、「そうなればよろしうございますが」とこたえた。
「なによその言いかた。私には無理ってこと?」
「差し出た物言いはお許しのほどを。たた、いかに込んでありましても、娘々のご意向には…」
「ふん、どうせ、こんな、賢こがって気ばっかり強い私なんて、イキオクレよ」
「公主…」
沙龍はふーん、と鼻をならした。
「さんざん手を焼かせてきたのだもの、今さらおとなしく言う事を聞くなんて出来ると思う? ねえ美麗?」
「はぁ」
見ずを向けられても、美麗は困った。美麗流の論理なら、沙龍の意思は後押しすべきではあるが、後宮の機微というものも少しづつ解り始めた身には、それではまた何かと悶着があるだろうなあ、と思えた。答えがないのに、沙龍は言う。
「あら、美麗なら解ってくれると思ったのに」
「そういうわけでは」
「いいのよ。どうせ公主は窮屈な身分よ。一生このまま、外の世界を夢見て終わるのね。美麗の言う所の『籠のトカゲ』よ。鼠だったかしら」
「小鳥です、公主」
美麗と沙龍が軽口をたたく間に、先頭を歩いていた飛鷲が「あら?」と声を上げた。
「どうしたの?」
「はい。あの…」
飛鷲が指を指す先に、人影があり、それはこちらに向かって進んでくるようだ。
「水…煙さんじゃないでしょうか」
「え?」
美麗たちも先を見た。見たところ、龍宮殿によくいる官吏の格好をしていた。
「本当に水煙?」
「そう言えば彼、白水閣にいなかったわねえ」
だが、近付けばますます、その人物は水煙に見えてくる。ただ、彼の、官吏らしいきびきびとした歩調ではなく、風にながされるようで、擦れ違ったのが沙龍たちであることにも気がついていないようだ。
声なく三人は水煙の後ろ姿を白水閣方面に見送る。そこで沙龍が鼻を動かす。
「芙陽の、匂い?」
「え?」
美麗と飛鷲は裏返った声を上げる。
「芙陽の匂いよ。あの子は沈丁花が好きなのよ。
そんなことはどうでもいいわ、飛鷲、美麗、捕まえて!」
考えて見れば、後宮に男性が入り込んでいるというのが非常事態であるのに、加えて今度は公主の移り香を漂わせての彷徨とはいよいよただ事ならない。
漂う水煙は、美麗たちの手によってたやすく取り押さえられた。そのうちに、ようようかれの正気が戻ってきたようだ。
「ああ、みれい」
「水煙どうしたの、どうしてこんな所に」
「それが」
水煙はぐるりと顔を巡らし、沙龍の顔が見えたとたん、飛び上がって平伏した。どうも事態は沙龍が想像した所に違わないらしい。
「…あわれるべきか、四つの足にて枝葉をなすこと」
沙龍は腰に手を当てて、水煙の背中を見下ろしていた。
「白水閣で見たときには、神経質そうに見えたけど、似合わず大胆な事をするものね」
「…」
水煙は恐れ入って返事もない。沙龍は屈み込む。
「芙陽をずっと大切に思ってくれる?」
「は」
「いい? その場しのぎの返答だったら、聞きたくないの。全身丸向きになって、逆さ張り付けになって、角を折られて国を遂われるってことを覚悟でここにこうしているのなら、たやすいことでしょ。
もしお前に、これから先の自信がまったくなかったら、もう二度と、芙陽の目の前に現われないでちょうだい」
「…」
呆然と、水煙は沙龍を見た。
「私はお前の味方よ」
「…ありがとうございますっ!」
水煙はまた平伏した。
「飛鷲、白水閣にこっそり帰してあげなさい」
飛鷲は、一大事を目のあたりにしながら、さして表情もかえずに水煙の先に立って元来た道を戻り始めた。
「美麗、あなたは一緒に玉華殿に行くのよ」
「は、はい」
「公主はただいまお休みになっています」
侍女・燕淑の声は必要以上に緊張して、少しく上ずってさえいた。たしかに、芙龍公主なら、眠っているだろう時刻の、沙龍の訪問だった。
「本当?」
沙龍は腕組みをして燕淑を見た。
「お前のほかに、誰か起きている?」
「いえ、私だけです。ほかのものは、御降嫁の準備に忙殺されておりますので、よく眠っています」
肩をすくめ、今にも泣き出しそうな燕淑に、沙龍の後ろから美麗が言った。
「燕淑、大丈夫。公主は芙龍公主とあなたの味方よ。私もよ」
「美麗さん」
「あなたが何を考えてどうしたか、大体わかってる」
「でも」
そこに、琴を爪弾くまばらな音がして、
「姐姐のお声ね、入っていただいて」
と芙龍の声がした。
夜の絹物をまとって、芙龍は、台の上に据えられた小さな琴を弾いていた。ちゃんとした旋律にはなっていないように聞こえる。いつもの、おとなしやかで、あえかな風情だった。夜中の来客を見ようと上げた顔に、解いた髪が陰をつくって、笑みが一層消え入りそうに見える。
「芙陽」
「姐姐」
「起きていたら駄目じゃない。降嫁が近いのよ。疲れた顔になるわよ」
芙龍は姐の顔をじっと見た。沙龍はその顔をじっと見た。
「眠れないの?」
「少しだけ。退屈をしている間に姐姐のお声がしたの」
「そう」
沙龍は燕淑に、眠れるような飲み物でも主人に進めるようにいい、その前にに筆記用具を用意させた。
「そうしたら、お使いを頼まれてくれる? 今からかくお文を青龍大哥に届けて欲しいの」
「は、はい」
「公主、お急ぎなら私が」
厨房に消えていった燕淑を見て、美麗が行くような素振りを見せたが、沙龍はそれを許さなかった。
「駄目」
「ですが、帰還するついでというもので」
「一人で後宮なんか歩かせたら、また驪龍二哥にかどわかされるわよ。決まってる。あなたは朝まで私と一緒にいなさい」
「はい」
「水煙が辞表を出すようなことになったら大哥にすがったほうがいいわね」
そんなことを言いながら沙龍は筆を走らせる。
「文人としての腕は悪くないから、照龍大姐のところで活動するように口を聞いてもらうのがいいでしょ。白水閣じゃどこから足が出るかわかったものじゃない」
美麗は、燕淑を待つまでもなく、眠ってしまった芙龍を見た。
つい先刻までは、この寝台の中には水煙もいて、打々発止と褥合戦が繰り広げられていたわけである。
大方、何かの拍子で芙龍にケソウした水煙に燕淑が押し切られ、こんな自棄を許してしまったというのが真相であろうか。
それにしても、美麗はなぜだかイヤな予感がした。それをイヤな予感とするのは、少しイヤな予感に失礼かもしれない。とにかく、何やらの一念は岩をも穿つのである。相手が龍だろうが素人間であろうが、それが自然の摂理というものであろう。そしてお約束であろう。
芙龍がすでに眠ってしまったのを知った沙龍は、ぽつりとこぼした。
「恥も罪悪感もない顔をしていたわ。自分に何が起こったのか、解っていないのよ。
これが自分の妹なんてかわいそうすぎる。
…ねえ美麗、この子、水煙をどう思っているのかしら」
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