ある 

 一体、自分が元に戻るという話はどうなったのだろう。美麗はそんなことを考えていた。 
 特に他人には言い出していないから当然といえば当然だが、そういう秘術を自在に繰る仙人の話題なんていうものもついぞ耳にしない。 
 香らぬ花には虫も来ず、か。格言めいたものを勝手に作って、美麗はどこかで何かに急ぐ自分の心をなだめていた。 

 もちろん、実物を見たわけではない。だが美麗は、 
「紫金城とかいうものよりすごくない?」 
と、「天安門広場」を横切りながら、貴龍兄弟と一緒に一つ馬車に乗り、窓から顔を出して考えていた。いうまでもなく、ここは天安門広場ではなく、龍宮殿の前庭である。 
「ここで驚いていたら、この先、いくつ肝があっても足りないよ。龍王様のいらっしゃる凌雲殿はもっとすごいんだ」 
口を開けっぱなしの美麗を笑いながら、小貴龍が言う。 
「でも今日は関係ないね。用があるのは青龍天子様のいらっしゃる白水閣だよ」 
そして彼は、龍宮殿は、南から、政治を行う場所、龍王の住まい、后や侍女の住まいに分かれていると説明した。 
「白水閣は龍宮殿の中にありますが、そうした陛下にかかわる諸殿とは隔てられてあります。もし貴女が素性のことをまだ気に病んでいるのなら、まず大丈夫でしょう」 
大貴龍は読みかけの書物をくるくると畳んだ。ひょっとして、この男は、自分がもといた場所に帰りたいというのを察していてくれるのかなあ、と、美麗は少しいい気分になった。 
 ぐらり、と馬車が揺れて、龍宮殿の東にぽっかり開いた入り口に、吸い込まれて行く。 

 青龍天子が待つその部屋は、思ったより家具はなく、壁に直接誂えた本棚には、巻物やら和綴じ本やら、はてはいかにもな横文字の書かれた皮表紙すらもが、たしかに汗牛充棟の勢いでつめこまれてあった。 
 天子本人は、朱塗りの机につき、頭の回転の緩いのか速いのかすぐにはわかりかねるまなざしを向ける。 
「ほう」 
天子は大貴龍の後に入ってきた美麗の顔を凝視する。席を立って、横や後ろからもためつすがめつして、大貴龍を見た。大貴龍も、その視線の意味はわかっているようで、会釈して返す。天子はその顔をすぐ美麗に向き直し、のどかに言う。 
「賢そうな顔をしている。大龍、よく見つけて来た。このものなら、よく仕えてくれそうだ」 
「恐悦です」 
大貴龍が腰を折る。 
「もの知りたがりの田舎もので、ここまでに質問攻めにあい辟易しました」 
「そうかそうか、ご苦労であった。なにぶん、侍女をみな姚妙にとられてしまってなあ」 
嬉しそうな天子のそばで、柄になく美麗は萎縮している。大貴龍がさっきえらい失礼なことを言ったようなきもしたが、知らなかったことにする。 
「気楽にしてよいのだぞ。身の回りの世話は向こうで全部賄ってもらうから、この書斎の整理と、私の話し相手をしてもらうだけだ。時々は使いもしてもらうだろうが、本当に時々だ」 
危険なことはない。たぶん。天子は笑った。 
「昔は火遊びもしたが、今は姚妙一人だ。その点も安心しておけ」 
「天子…」 
口を滑らせる天子を穏やかに大貴龍がたしなめる。気後れして、逃げ出したい気持ちもあったが、天子の言葉には持ち前だろうか、人のよさがにじみ出ている。 
「美麗、さっきまでの元気はどうしたのさ」 
小貴龍が横でちゃかす。そこに、 
「天子」 
と、戸口に官吏が進み出て膝をついた。 
「万歳翁のお召しがございました」 
「わかった」 
ひらりと、それらしいスタンスになって、青龍天子は官吏に答えると、 
「大龍、供しろ」 
と言いながら書斎を出る。大貴龍は、小龍に何事か言い置いて、その後を追う。 
「おいでよ。もう荷物は運ばせたよ」 
小貴龍は美麗の手を引く。 
「これから美麗には覚えてもらわなきゃならないことがあるんだ」 

 広くはないが、池のある中庭に面して当てられた美麗の部屋で、机の上にばさりと広げられた紙の一点を、小貴龍は差した。 
「ここが白水閣」 
龍宮殿の見取図のようだった。 
「覚えてよね。しばらくはボクがついていくけど、何時までもそれは出来ないからね」 
「ええ」 
そうはいわれても、建物の名前は全てがややこしかった。 
「それから、」 
小貴龍は地図上の別の点をさした。白水閣のすぐ北隣りだった。 
「ここは紫虚閣っていうんだけど、ここは絶対に入らないでね。ここからも廊(渡り廊下)が繋いであるけど、扉は閉じてるから、開けようなんて思わないでね」 
兄様がいうには、メンドウが起こるんだって。小貴龍は言うが、 
「面倒ってなに?」 
と聞いても首をすくめるだけだった。 

 青龍天子が、龍王に呼ばれ用を済ませ、白水閣に戻る道すがら、こんな声が聞こえた。 
「兄上」 
「久しぶりだな。外に出たのは何年振りだ?」 
「知らない。こもっていてもきりがない。だから出てきた」 
「半病人だったお前が、出歩こうというのだから、よい兆候なのであろうなぁ」 
青龍は笑い、横の大貴龍に「なあ」と言う。彼は会釈した。 
 半病人という割には、主不明な声は張りがある。青龍を兄と呼ぶからには弟なのだろう、そんな年齢を思わせる。 
「それとも、何かのっぴきならない用事でもあったのか」 
青龍の、声に対する問いかけにはいくぶんからかいの味があった。 
「…」 
返事はない。青龍は「目敏いな」とつぶやいて、呆れた様子でため息をついた。 
「大体わかる。たしかにそうだ。 
 だが、自重してくれよ。お前も子供ではなかろうから。 
 私は娘々のご機嫌をとるのは得意ではないのだ」 
声の主の気配は消えていた。 
「しょうのない」 
青龍はため息をつく。同意を求められるまでもなく、大貴龍は「御意」と答えた。 

 そこで過ごす初めての夜だったが、美麗は輾転反側としていた。 
 ほんの半月前は傷だらけで森をさまよっていた自分が、こんなことになろうとは全く自分が自分でないような気がした。 
「…痛い」 
つねり続けた頬もそろそろ感覚がマヒしてきた。 
 窓の外が白いので、中庭に出て見ると、月光があふれていた。青白いというより、緑白い光は中庭の草花と夜露を白く浮きたたせ、ガラス細工のように透き通らせる。 
「…きれい」 
月は満月(半月前も満月なのだが、後になって、ここでの月の満ち欠けは美麗の知る月の半分の速さであると知る)で、華やかに降り注ぐ輝きに二廻りも大きく見え、中庭の美麗を圧倒した。 
 この光を家族に見せたい。そう思った瞬間、双方の距離を痛感し、どうしようもなく泣けてきた。涙が双方を一足飛びに近付ける魔法であればと、本気で考えた。 
 しかし、そんな涙の熱さは、今が夢でもおとぎ話でもないこといやが上にも見せつけるだけだった。 

 そんなホームシックもすぐ抜けた。 
 白水閣には色々な人間が出入りする。出入りするこの国の住民は龍だけであったが、外国人は商人といわず学者といわずひっきりなしに訪れ、青龍はそれにいそいそと接した。 
「オーガスタはいよいよ住みにくくなりました。新しい王は目の上のコブにしていた家臣を牢に閉じ込めたそうで」 
「ナテレアサでは冤罪によって夭折した騎士様が残したお嬢様が見つかったとかで、宮廷は大騒ぎですぞ」 
美麗はそんな話を聞いては、小貴龍をつかまえて世界地図を広げたりしていた。 
 彼女は確実に自分の位置を作り上げていった。しかし一方で、奇妙なことも起きているのである。 
 時々、誰かが後ろから自分を見つめているような気がする。しかし、振り返っても誰がいるわけではない。 
 紫虚閣に通じる廊の辺りで頻繁に起きた。 
 何かいわくを感じてはいたが、 
「なるほど、そのテのものが出るから立ち入り禁止にしてあるんだわ」 
美麗は一人で納得し(最初は色々聞こうとしたが、青龍も大貴龍も言葉を濁すだけなのであきらめた)、なるべくその辺りに近付かないように心がければ、そんな現象も極端に減り生活は快適になった。 
 ただ、あるとき、彼女は、廊を隔てる扉の向こうで、人影が建物のなかに入っていくのを見てしまった。 
 後ろ姿だけだったが、長身で、黒檀のような渋い輝きの角が二対見えた。龍王とその一族のみの特徴であるという。青龍のものとよく似ていたが、彼ではない。その身長を覆うほどの髪を、青龍は持っていない。 
 止められてはいるが、その正体を突き止めようと思えば美麗は矢も盾もたまらなくなる。 
「ここは後宮にも近いし…、みんな気味悪がってるかもね」 
扉は屈めば通り抜けられるような、下の空いている簡単なものだった。潜り抜けて、建物の前に立った。 
 建物の入り口は、開けられることも余りないようで、敷居の辺りには泥がこびりついていた。庭の手入れはしていないようで、雑草が露を含んで美麗の衣装の裾を濡らす。ただ、倉庫と決めつけてしまうには、黒みがかった紫の扉にあしらわれた龍の彫り物は格調が高すぎた。 
 扉を押したり引いたりしたが、開く気配がない。それでも何度目か押したとき、突如扉が髪のように手応えを失い、美麗は惰性で開いた扉から部屋の中にもんどりうった。 
 「真っ暗?」 
扉から入った光が、美麗の影を床に作ってはいるが、その光すらも吸い込んでしまうように、奥は意外に深く、この部屋の大きさもわからない。光から闇の空間に放り込まれた直後ならまだしも、目が慣れても、それは変わらなかった。 
 大きな音がして、背後の扉が閉まった。 
「!」 
美麗が慌てて出ようと、取っ手に手をかける。開けようとしたときのように、びくともしない。 
「…」 
助けを呼ぼうと吸い込んだ息は、なにもしないまま抜けていった。背後に何かがいる。刺すような視線。 
 例えるなら、飢えた虎が獲物を見つけて、その油断を狙う視線。 
 背後から伸びてくる手を払って、美麗は相手を横にいなした。走ろうともがくが、完全に慣れたとはいえない裳裾に足をとられる。 
 横倒れた自分の周りに、さわりと何かが垂れ落ちる気配がした。ここに入っていったあの人物のものだとすぐに悟った。 
 再び手が差し伸べられてきたが、恐ろしく静かに、美麗の衣装のあわせの中に滑り込み、襟を分けてきた。 
「っ」 
動けなかった。帯も解かれ、裳裾が左右に分けられた。 
「っっ」 
美麗の襟足に、柔らかいものが当たって、軽く触れながら、生暖かい空気が胸元にまで伝ってゆく。 
「やめてええええっ!」 
やっと出た声は、弾かれたバネの用に飛んだ。脇の戸が、文字どおり蹴破られた。 
「美麗!」 
大貴龍の声のようだった。光が再び差し込んできた。光に遂われるように、美麗にのしかかっていたものは奥に退くようだ。 
「大事ないか!」 
青龍もかけつけていた。 
「呼んでも参上しない、部屋にはいない、探していたらこれだ」 
大貴龍はうなだれた美麗を抱き起こした。かかかかかかかか、と美麗の歯が鳴る。青龍は奥に入り、厳かに言った。 
「一体これはどういう了見だ。今度ばかりは見損なったぞ。万歳翁には一切合財報告しておく。久しぶりに絞られるがいい」 

 「あれほど近付くなといってあったのに」 
「天子様、お小言は後にあそばしてよ。だいたい、ちゃんと説明しなかったことも悪いと思いますわ、妾(わたし)」 
 にわかに足腰の立たなくなった美麗は自分の部屋にかつぎ込まれて、姚妙の侍女達が右往左往して正気だけは取り戻した。知らせを受けて、青龍と姚妙が入って来る。開口一番、青龍は言いとがめて、姚妙がそれをたしなめた。 
「大変だったわね」 
美麗はまだくらくらする頭を抱え、礼だけを返した。 
「たしかに、隠していた我々にも落度はあったかもしれん、だがここまで小賢しく動く侍女は初めてだ」 
青龍は呆れた声で言う。 
「あんなことのあった後で聞きたくはなかろうが教えてやろう。 
 あの紫虚閣には、私の弟・驪龍皇子がいる。病篤くてな、静かにしておるのが薬というから人を余り近付けぬようにしていた。 
 それだけだ。美麗、これでお前の興味は満足か」 
「天子様」 
姚妙は青龍の背をなでる。 
「そんな投げやりにおっしゃらなくても」 
「私はもうこれいじょう彼女に教えることはないぞ」 
驪龍め、今日という今日は… 姚妙が見かねて、己が居室に青龍を導く間も、彼の声高なつぶやきは長いこと聞こえていた。 
「貴女が原因でおかんむりになっていらっしゃるわけではない」 
あれから先は夫婦二人だけにしておくのだろう。大貴龍は残っていた。 
「心配をかけるほどお可愛いのです、皇子が」 
 …美麗、貴女も今は落ち着くのが薬です。暫く眠っておきなさい」 

 美麗は一人残される。心が緩んだ眠気は、容赦なく彼女に押し寄せてくるのであるが、目を閉じ心を済ますと、先刻の一件を思い出すようでそうは出来なかった。 
 別に美麗が格別にオボコというわけではない。過去には曲がりなりにもカレシ(発音は平坦に)のいたこともあったし、まんざら「未経験」でもない。ないが今はそんなことは関係がない。第一誰でもあんな目にあえば同じことになるはずだ。 
 青龍天子の弟といえばたしかに重い身分ではあろう。だからといってあんな仕打ちは許されていいはずはない。 
 青龍様のおっしゃるとおりにこってり油を絞られればいいんだわ。美麗は頭まで布団をかぶった。 

 翌々日には美麗はすっかり回復して、またそれまでのようにくるくると立ち動くようになった。驪龍皇子とおぼしきあの視線もぱったり感じない。 
 そして彼女は、青龍から手紙の使いを頼まれた。 
「後宮にな、明鏡殿という所がある。そこに私の妹の沙龍公主がいる。彼女にこの文を届けてもらいたいのだ」 
漆塗りの箱を手渡されて、そういえば、本格的に後宮というものに足をいれるの初めてだ、と思った。小貴龍はあいにく不在で、やむをえず地図を持って美麗は出かける。 
 後宮は、石の廊が庭と庭を繋いでいて、建物どうしは離れて建っている。ちょっとした住宅街と思えなくもない。建物のあいだには塀もある。 
 だが話によれば、現在の龍王は妻は一人だけであるらしい。依然は何人かはいたらしいが、正宮(皇后のこと)がみな追い出したという。 
「たしかに、旦那の愛人なんて認めたくないわよねぇ」 
『美麗的』結論で納得したところで、目の前に「明鏡殿」の金文字の額が掲げられた入り口に出た。 

 「お言葉がありますので、ここで待つようにとの、仰せでございます」 
そう言って部屋を出る侍女の顔はおよそ真面目とは言えなかった。こんなときのお約束として、驪龍の一件は周知のことなのだろう。美麗はあまりいい気分ではなかったが、だからといって勝手に退出する理由ではない。 
 待つことしばし、 
「あなたが、美麗?」 
はきはきと澄んだ声がして、美麗は振り向く。現われた、背伸び盛りという年ごろの沙龍公主は、裳裾をさぱさぱと鮮やかにさばいて、庭に出て、出してあった陶器の腰掛けに座る。一人だけついてきた侍女が美麗を手招きした。 
 近付きはしたが立ち尽くす美麗に、沙龍は差し向かいの椅子をすすめる。 
「飛鷲」 
侍女を下がらせて、「いいから座って」といい、美麗が名乗ろうとするのを待たず、沙龍は 
「あなたのことは知ってる」 
という。その口ぶりには、お嬢様らしい雰囲気はあるが、対する美麗が一介の侍女だとて見下すようなトゲはない。 
「まさか大龍の身内に、そんなに間抜けなのにはしこがるのがいたなんて知らなかったわ」 
美麗は一瞬すくんだ。まさか、この姫様は、自分が龍の血など一滴も入っていない素人間ことを見抜いているのではないか? だとしたら、どうなる? 
「なんにも知らなかったらしいから無理はないけれども、ここ何年かで、紫虚閣に一人で入ろうとしたのはあなたぐらいよ」 
しかし、美麗が龍でいることを、この姫君も疑ってはいないようだった。それでも美麗は、頭の作り物が落ちやしないかとひやひやしているのだが。 
 さて沙龍は、 
「そんな変人と話がしたかったのと、改めて驪龍二哥には気をつけなさいよって、そう言いたかったわけよ」 
「はあ」 
「ま、ついこの間まで? 異国にいたらしいから? 知らないのも仕方がないけれども? 二哥が変になってしまわれたのは奥様のせいなんですってよ。 
 『あなたに瓜二つ』のね」 
美麗はすぐには反応できなかった。暫くして、あんなポルターガイストのような人にも妻がいたのか、と感心し、それが自分に瓜二つだという意味をよく考え、その頃やっとどぎまぎしてきた。 
「私に、ですか」 
「大体、無理のある結婚だったのよ。二哥本人だって、「角なし」ならまだしも、素人間を妻にすることが、どんなに危険なことか知らないはずがないのに。 
 娘々は案の定、ひすてりいを起こしたわ。自分が腹を痛めたわけじゃない義理の息子でも、龍王の一家の一員が、嫁に素人間は持ってのほかってね。 
 その点、あなたはお情け程度であっても角はあるみたいしね。 
 この間はひどいことにならなかったからよかったけれども、またぞろ、襲われて全身くまなくしゃぶられないように注意するのね」 
過ぎたことを思いだし、ぞわ、と身を振るわせる美麗をよそ目に、パキパキと早口に、言うだけ言って、沙龍は改まる。 
「それはそうと、私、あなたと友達になりたいわ」 
「え」 
「私ね、時々青龍大哥の所で、いろんな人と話をするの。娘々は公主が落ち着きなく出歩くのは行儀が悪いというけどね、そんなの気にしない」 
「私で、よろしいのですか?」 
「あなたが暮らしてきた国のはなし、聞かせてよ」 
 そんな時、さがっていた侍女がやってきて、正宮のやってくることを告げた。沙龍はあまりいい顔をしない。が、建物のほうには、はやざわざわと人の立ち動く音がして、 
「まあ、そんな日の当たるような場所に」 
と声がした。 
「おまけに、またそんな卑しい者を近付けて」 
青龍や沙龍の母という美麗の先入観を打ち砕く、二十代といっても通用する容貌だった。掛け値なしに美人だ、と美麗は一瞬見とれた。こんな美人がヒステリイを起こすのなら、確かに彼女の笑顔のために愛人全部を追い出させもしよう。だがその七癖隠す美貌もかき消されるほどに、居丈高に構える雰囲気は美麗も少しだけ抵抗を覚えた。 
「母様、美麗は私の友達よ」 
「お黙りなさい」 
言いながら、沙龍の母にして正宮・燎哲娘々はつん、と顎を反らせた。美しく枝わかれした先々に金の覆いをつけた大小二対の角に絡められた、宝石を止めた金の細い鎖の下がりが、ゆらりと妖艶に輝いた。 
「やはり、もう暫く手元に置いておくべきでした。 
 そんな者を友として並び立たせるなど、お前は恥を知りなさい」 
美麗は、とっさに平伏したが、燎哲娘々はその顔を見逃さなかった。 
「や、その顔!」 
娘々はやや肩を怒らせ小走りに美麗に寄り、持っていた扇で美麗の肩を打った。痛くはなかったが、驚いて、つい娘々を見上げた。 
「その目! 汚らわしい! けだもの! 出てお行き!」 
「母様!」 
沙龍は美麗の手をとり、娘々の扇からかばうように肩を抱きながら、 
「ちっ!」 
と舌を鳴らした。降ったか湧いたか現われた雲に美麗を投げ置き、自分も飛び乗り、明鏡殿の屋根ほどまで浮き上がる。 
「沙尚、おまえまで!」 

 「美麗、ごめんなさいね、気を悪くしないでね」 
後宮の上を雲を旋回させながら、沙龍は言った。 
「いえ。やはり、娘々のおっしゃるとおりに、私のことは捨て置いていただいて」 
「そんなこと出来ないわよ」 
沙龍は意外に強くその申し出をはね除けた。 
「そもそも、公主にもそれなりの学問があったほうがいいって、青龍大哥の所で学問しろって言ったのは娘々よ。きっと裏目に出たから悔しいんだわ。 
 私はそれより、まだあの娘々のそばにいる芙陽のことが心配だわ」 
私の妹なんだけどね。沙龍は、芙陽(芙龍公主)の人となりをざっと美麗に話した。一言で言えば箱入りである。沙龍とは大して年も変わらないが、沙龍の二の舞いになることを恐れた娘々が、手元で徹底的に花嫁教育をすることにしたらしいのである。 
「縁談もそろそろ来るはずよ。降嫁したら、もうなにも出来ないもの。かわいそう」 
美麗もしんみりしていたが、余計なことも考えていた。 
「公主、厚かましいついでに質問を許してくださいますか」 
「そんな堅くならないでよ。…どうぞ、何?」 
「例え龍の血を持っていても、角がないということでおとしめられている者があると聞きます。 
 龍にとって、角がないとはどんなことなんでしょうか」 
「どうしそんなことを聞くの?」 
言われては、と美麗は口を塞いだ。丸でこれで、自分の角がないことを暴露するようなものだ。でも沙龍は、美麗の「異国暮し」と言う先入観があったおかげで、聞きとがめることはなかった。 
「そうねぇ」 
沙龍は首をかしげ、やおら胸を張った。ちょうど、さっきの娘々のように。 
「御先祖から受け継がれたこの至尊の血を全く持たないなんて、ケダモノと同じです!」 
「ええええ」 
「って、娘々なら言うわね」 
でも変だと思わない? 沙龍は肩をすくめた。美麗は胸をなでる。親子だけに、それだけこのモノマネは真に迫っていたのであった。 
「この国の中だけで固まっている学者は、この素人間と変わらない姿を『四足之蛇』として嫌っているの。中には年がら年中、ながい体をとぐろにしている学者もいるくらいね。 
 大体、この姿をとることになった理由は、周辺国と生活をあわせるためやむないことだったと考えられているけれど、進んでこの姿になった事情だってあるのよ。 
 変な話しだけど、それまで蛇の格好で行っていた生殖活動を、変わりにこの姿で行うようになったら、やめられなくなったってこともあるのよ。色気も素っけもわからない学者は、その事情があるからこそ嫌がるみたい。 
 でも美麗、考えてみてよ? いままであなたがどこの国にいたかは知らないけど、そこではあなたみたいに角を生やしている方が珍しかったはず。そんな人達が、この国に入ったとたんにケダモノよばわりされるいわれなんてないと思うの。だいたい、あなたは、角が生えているだけでケダモノあつかいされた? 
 みんな偏屈なのよ。大哥のお客のなかには、耳が長い人だって、鳥の羽根がついてる人だって、大人になっても子供みたいに小さい人だっているのよ。 
娘々も学者達も、もっとそれを受け入れなくちゃ」 
思いもかけず、賢い物言いをする姫様だ。美麗はいつのまにか沙龍の話に聞き入ってしまった。 
「白水閣に行きましょう。大哥と話がしたいわ」 
沙龍は興奮醒めやらぬ紅潮した顔色で、美麗の見慣れた建物群のなかに雲を降ろしていった。 

 「ははは、娘々はそんなことを言ったか」 
青龍は笑った。 
「大哥、それじゃ美麗がかわいそうよ」 
沙龍は膨れる。 
「二哥のお母様に似てるだけであんなにぶつなんて」 
「怪我もないのだ。いつものことだということで見逃せばよい」 
青龍は彼女をなだめ、確かに芙陽のことは気掛かりだ、と言った。 
「お前は幼い頃から、娘々よりは万歳翁や私に懐いていた。逆に彼女は本当に、自分から好き嫌いを言うところなどみたことがない。 
 例外や前例のないことを忌む娘々の言うなりに、どんな暮らしをしているかと思うと心が痛い。 
美麗、もし機会があれば、お前にも彼女を引き合わせることが出来るだろう。その時には、お前の暮らしてきた国の話などしてやるがいい。きっと喜ぶだろう」 
 しかし、その芙龍公主が、遠くないいつか、この話に大事な色を添えることになろうとは、この時、場の誰にもわかる余地などなかった。