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じゅういち・振り返った時そこにいてほしいのに

 モイラは泣いた。目玉が溶けてなくなるぐらいに泣いた。泣いても泣いても、その涙で胸の穴は満たされぬまま、悪夢の様なあの日から、いつしか十日が過ぎようとしていた。
 
 冷えた食事の皿を持って、侍女がうろたえている。
「十日も飲まず食わずなんて、体に悪すぎるわ」
オルトがため息をつく。この間、何くれと彼女の歪んだ心を元に戻そうと心を砕いてきたのだが、何の効果どころか、部屋の戸すら開けてくれない日の方が多く、お手上げの状態だった。
 あの日、カイル軍の強制排除に際しては、相手の追撃を恐れて、逃げる足でパラシオンに戻ってきた。後になって、革命分子の首魁から届けられた文書では、アレックスの遺体は、あの三人の騎士と共に、宮殿前広場に、全身にコールタールによる防腐処理を施された上で晒しものにされたそうだ。セ。だが、おおかたの場合、突然パラシオンの騎士に推薦され、王愛用の剣を下賜されたその事情を勘繰って、何と誤解されようとも詮ないことだ。
 ユークリッドはその見えかくれする揶揄をあえて黙殺した。その誤解は実は正しい。ユークリッドがどう否定しようとも、アレックスが王女の未来の配偶と見込んだ男ならば、その国の騎士位は最低もたねばならない地位であるだろう。
 そして決定的なことには、モイラに激しく誤解されていたのだ。モイラを得るために、アレックスを見殺しにしたのだ、と。
 ユークリッドはオルトの元に戻る。
「どうだった?」
と聞く彼女に、
「今はそっとしておくべきです」
としかいえなかった。
「侍女すらも、御前に近づくことをお許しになっておりません」
「そう… この間は、兄様とエルンストが話をしにいったら、やっぱり門前払いを食らったらしいのよ。
「お二人とも、利用されているのですわ」って言ってたっていうけど… 何のことかしら」
ユークリッドは答えず、一礼して兵舎に戻った。部屋に戻って自分一人になって、頭では覚悟の上でも、面と向かってのモイラの辛辣な言葉を聞いた、その余韻が今になってせり上がってきた。彼も泣くことしかできなかった。

 全てを拒み続けるモイラに、変調の兆しが見え始めたのは、その年の秋深くなった頃だった。
 中庭で、モイラをのぞいたいつもの面々が談笑していた所に、侍女達のうろたえた声と共にモイラがやってきた。実に何か月ぶりかに姿を表わしたので、オルトなど思わずかけより
「モイラ!」
とすがりついて頬ずりした。
「元気になれたの? 外に出て大丈夫なの?」
侍女のほうは、モイラの乳母も勤めたその頭目が、居並ぶディートリヒやらエルンストやらの前で一礼して、
「お姫様をお止めなさってください!」
と憔悴しきった声で言った。
「どういうことだ? 今まで自分の部屋をてこでも動かなかったのが外に出て来るようになったのだ、いい兆候じゃないか」
「彼女の健康を心配するほど風も冷たいわけではなし…」
「そうではありません」
侍女頭目が返す。
「お姫様は、あの木に登ると仰せなのです」
「は?」
一同は聞き返した。モイラが
「オルトねえ様、苦しい」
とオルトの腕の中でもがいた。食事らしい食事をとっていない彼女のからだには、一時の健康そうな様子はなかった。肌はいよいよ白くなり、顔の線も多少鋭角になっている。歓迎できる様子ではない。中庭には、たしかに、子供が腕を回したぐらいの幹の木があり、少し登ったところに、座るにはいい具合に曲がった枝がある。
「お兄様が帰っていらっしゃるかもしれないの。いつも誰かに手伝ってもらっていたの。でも今日は一人で登らなきゃ」
そう主張して、オルトの腕を、細った体のどこにあるかというような力で振りはなし、その木に登ろうとしている。
「…いかん、モイラを止めろ、子供の頃ならまだしも、今の体で登ったら木が折れる!」
突然のモイラの奇行に呆然となっていたところをやおら調子を取り戻し、ディートリヒが言う。すでに控えていた従者やら侍女やらがその下で、衣装のすそを引いたり救出用にシーツを広げたりし始めている。だがモイラはどんどん登り、座れる場所に手をかけていた。だが、かなり枝は細く、長くは彼女の体重を支えてはいられない。モイラにも体でわかったらしい。降りようと力をいれるだけでも、木はしなる。木の上のモイラは不安定に揺れた。彼女の体は硬直し始めた。後ろから引きずり降ろそうにも、この木は二人の大人の体重は支えられない。
「姫様、ここに!」
従者がシーツを掲げた。飛び降りてきたところを包むように受け止めれば怪我はない。だが、木の上の体は動かない。
「あ…」
青ざめた顔でモイラは下を見ている。ディートリヒが、シーツをもちながら侍女の頭目に聞いた。
「彼女があの木に登っていたのは、一体いつの話だい」
「十年も昔でございます。先王様は狩りがお好きで、よく兄王様をお供に二三日お城を留守にすることがございまして、お帰りになるという日は、ほぼ一日中、お姫様はこの木に登って、御帰還をお待ちしておりました。城のものの話に寄れば、この木からは、城下町がよく見えるそうでございます」
彼女が答えている間に、モイラは涙で目をうるませ始めた。降りるに降りられず、かといって飛び降りるなど、身がすくんで出来るはずもない。シーツの白を見つめながら、瞬きする度に、きらきらした滴が落ちる。
 と、そこに
「王女!」
と声がした。教練中だったユークリッドが、騒ぎを聞きつけて入ってきたのだった。その後ろでフィアナの二三人が、とにかく万難を排して参上しようとする団長のスピードについていけず息を切らしている。
「ど、どういうことなんですか」
と聞くと、オルトが
「どういうこともこういうことも、突然やってきて木に登り出したのよ」
と当惑顔で答える。ユークリッドは当然のように言った。
「降ろしましょう」
「お、降ろすって、どうするの。大人二人なんて登れないのよ」
オルトの言葉を背中に受けながら、ユークリッドはシーツを片付けさせ、木に近付く。
「王女」
真下について諸手を広げる。
「こちらに」
「…」
モイラの涙が止まらない。
「恐いの…動けないの」
「大丈夫、その高さならば落ちても大した怪我にはなりません。
私が下ででしっかり受け止めますから」
「…」
「どなたか、木を強く蹴ってください」
従者が半信半疑で木を蹴る。がくん、と全体が震えて、固まっていたモイラはバランスを崩して背中から落ちた。侍女たちは目を覆う。だがモイラの体はユークリッドの腕の中に見事落ちた。
「お怪我はございませんか?」
聞くユークリッドに、モイラはなにもいわず、彼の薄汚れた教練着に顔を埋めて再びすすり泣き始めた。
「…おどろいた」
オルトが横で言う。
「そのまま落ちろなんて荒療治、よく出来たわね」
「修道院で問題児だった頃に、よく同じ方法で助けられていたもので」
モイラを足から地に立たせ、侍女と共に中に入ったのを見送ってから、ユークリッドは答えた。
「…王女、一体どうされたのでしょうか」
「私のほうが聞きたいくらいだわ」
オルトも変な顔をし、エルンストたちも肩をすくめた。

 アレックスが存命で、かつ最愛最良の兄だった時代に、モイラは一人で帰っていこうとしていた。
しばらくの間は、時々は大人に戻る時間もあったが、それもなくなり、ついには公の場所にも出られないほどになっていた。
 夜な夜な、アレックスを探すモイラの声と姿が、城の至る所で目撃されるようになる。
城の住人は、全て女主人を憂えた。国内外から高名な医者が多数招かれたが、診察後の説明では口をそろえて、
「兄王を亡くされたことがよほどこたえたようだ。心が、兄王が御存命だった昔を懐かしみ、戻ってしまわれたのだろう。
 お薬の方は処方のしようがない。強いてあげれば時がたち、お心の全てでご納得いただけたときに始めて癒えるとしか申し上げられぬ」
なんともけんもほろろの言いようである。ただ、現在の人事不省は、休息と栄養の不足によるものもあるから、まずその治療を優先させるべきだろう、と。
 その中で、ひとりの医師が持ちかけた方法を、
「これしか方法がないらしい」
エルンストがパラシオンの家臣を集めて切り出した。
「パラシオンには、モイラの心の病の元となっているものが多すぎる。一時それを絶つことが、安定した心に戻っていくもとではないかということだ」
つまるところ、モイラをパラシオンから離してゆっくりさせようということである。国の危機をすくってくれた王子相手に、断われようはずもなかった。ちょうど、ブランデル王が万が一の場合にはと用意してある城があるというので、モイラのブランデルゆきは、準備の整い次第実行に移されることになった。それに際し、アレックスを思い出させるから、と、パラシオンの騎士達も、頭目以外の侍女達も、全て残すことにした。

 その前にディートリヒが、一足先にロスクヴァに戻ることになった。
 あの日、あの人数の前で一演説ぶってしまったのだから、居合わせていたカイル公が政治的な攻撃を仕掛けてくるのは明白だった。彼は自国に戻って、政争の渦に自ら飛び込むつもりらしい。ついでにいえば、パラシオンの花街で出会った女性を正式に妻に向かえるつもりでもいるが、それについてもいろいろ軋轢があるだろうとのことだった。最も女性に関しては、公爵に発言権はなく、正確には母公爵夫人の説得というところか。本人は、職業柄の世ずれもないいかにも可憐な風体である。オルトやモイラとも仲がよかった。
「覚悟はしていたさ、どっちもね」
そのひとの細い肩を愛しそうに抱きながら、ディートリヒは不敵に笑っている。
「まあお前のことだ、いい知らせを期待してる。オルトの悩みの種を増やすなよ。ただでさえ今まで、突っ走る兄貴できてんだから」
は、は、は、と彼等は笑ったが、いつまでも尾を引くことはなかった。少し離れたモイラを見る。
「…ちゃんと挨拶したかったが」
彼等が別れを惜しむ中庭では、子供のモイラが侍女たちと鬼ごっこをしていた。こんなモイラも彼等は知っていたが、大人のモイラの姿形には、王女らしい高潔で聡明な印象がはまって拭えないだけに、見るに偲びない。
「ほら、つかまえた。こんどはあなたがおによ」
わざと捕まえやすく逃げる侍女の手をつかまえて、無邪気にいう彼女の声が響く。
「心の傷の深さが、それだけあの子が元に戻る時間の長さになるって、お医者様は言ってたわ。
 どれだけかかるのかしら」
オルトがつぶやいた。本物の妹のように思っているだけに、より悲壮な面持ちである。
「…かわいそうに」
涙ぐみ、かたわらのエルンストの胸に顔をうずめる。そのエルンストに、ディートリヒが言う。
「モイラをよろしく頼む。本当なら、彼女を危険にさらした直接の原因を抱えるロスクヴァで預かるべきなのだろうが、これ以上、父の心痛を増やすわけにも行かない」
「仕方ないさ。…ディートリヒ、負けるなよ」
「うむ」
ディートリヒは力強く頷き、そばに控えていたユークリッドに向き直った。
「騎士殿、頼むぞ」
「はい」
少しおどけた風に話かけられ、ユークリッドはつい釣られて笑みをこぼした。


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