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暁を覚えずと、後世の詩人はそう言ったらしいが、たしかにこううらうらとした日は、仕事をしているのが実に馬鹿らしくなってくる。 馬鹿らしくなったついでに、牀にころん、と横になったのは、一刻ぐらい前か、自分の顔を触るようなふにふにとした感触で、維紫は軽く目を覚ました。 「…らいきー」 だめです将軍、あまりお城ではそう呼ばないで… 「らいき」 いけませんてば… やっと体が動かせるほどに目を覚まして、維紫は反射的に、 傍らの気配に 「き…」 悲鳴を上げようとして、やめた。 「阿斗様…」 維紫の牀で、にっこりと笑っていたのは、城主・劉備が目の中に入れても痛くないほどに溺愛している一子・阿斗だった。普段は後宮で、それこそ蝶よ花よと育てられているのに、なぜここに。 「お一人でいらしたのですか?」 と尋ねると 「うん、おひとりでいらした」 阿斗がそう答える。 「しりゅーといっしょに」 「え!?」 維紫はぐるぐると左右を見回す。が、趙雲の姿はない。しかし、幼児の足で後宮から軍の施設まで、そう簡単に歩いてこられるはずはない。兵に上がった当時、後宮に近い女官の部屋にあった自室から練兵場まで、どれだけ歩いたことか。 とにかく。阿斗の話を大分補足して言い直すと、女官などをつけずに、阿斗一人だけを、何かの事情で趙雲がこのあたりまで連れてきた、ということか。 「阿斗様がこちらにいらっしゃるのを、将軍はご存知なんですか?」 「うにゅ」 阿斗は、維紫の言葉がわからない、と言う顔をした。 「…どこから、いらしたのですか?」 「しりゅーのへや」 やはりそうか。他の将軍では逆に泣かせるばかりの阿斗が、女官もつけずに怖がらずいるということは、趙雲が預かっているからだ。 「将軍が、お困りになってるかも知れませんね」 戻りましょう、阿斗様。抱き上げて、維紫は、手のひらにものすごく嫌な予感を感じた。 時間にして、小半時はたったか。 牀で自分が使っていた上掛けの衣を、泣く泣く水洗いして干す維紫の姿があった。 その隣に、阿斗の小さな衣。「被害」が牀の本体に及ばなかったのはせめてもの 幸いか。当の阿斗は、維紫の衣を、長い袖を背中にまわし、結い紐でくくったのを、長い裾が面白いらしく、ずるずると引いて遊んでいる。 「やっぱり、ここで使わずに屋敷に持って帰ればよかった」 今干しているのは、その手のいわくつきの衣である。 先日、趙雲の屋敷につれられたとき、維紫は思ったより深く眠り込んでしまったらしく、起きたらこの衣だけを握っていた。趙雲はもう平服に着替えていて、 「お前がどうしてもそれを離さないから、起きるのに難儀をしたぞ」 と言う。加えて、 「気に入ったのなら、もって帰るがいいだろう」 そうして持たされたものだった。 「はづかしい…」 自分の屋敷にいかにも男物という大きさの衣があるのも嫌なので、ここで使っていたが、上等な絹で、糊気もなくて気に入っていたのに、まさかこんなことになろうとは。しかし、相手が阿斗で、しかもすでに出てしまったものを戻せともいえない。 「らいきー」 市井の子供に何の変わるところもない、阿斗も無邪気である。裾をずる、と引き ながら、干し物を終えた維紫のそばによってくる。が、 「あ、阿斗様、そう近寄られると」 すてん。維紫は思い切り、阿斗が引いていた裾でしりもちをついた。尻が阿斗に直撃しなかったのは、ひとえに彼女の運動神経である。 「らいき、ころんだー」 阿斗がきゃきゃ、と笑い声を上げる。阿斗でなかったら、気に入りの衣に粗相をした件といい、ひっぱたく、とまではしなくても、一言しかりつけもしただろうが、できないのがこういうときの維紫である。 「阿斗様、もしかしたら、将軍がお探しかもしれませんよ、帰りましょう」 そう言いながら再び抱き上げると、 「しりゅーのところ、つまんない」 と阿斗が言う。 「つまらないのですか?」 「しりゅー、おひるね」 …暁を覚えずは、維紫一人だけの話ではなかったのか。しかし、この陽気にうたた寝を誘われる油断を、維紫は笑えない。 「では、私と一緒に、将軍のところまでいきましょう。もしかしたら、起きられて、阿斗様をお探しかも知れませんよ」 廊下を使うこともできたが、わざと維紫は外から回ることにした。阿斗の体は、常日頃回している槍の重さに比べればたいしたことはない。 「…」 阿斗が維紫をみあげて、 「らいき、しりゅーのにおいがする」 と言った。どき。維紫の心臓が跳ねる。そりゃ、あの衣を使って眠っていたら、残り香もつくだろう。 それよりも、気になることがひとつ。 「阿斗様」 「うん?」 「なぜ、私を『らいき』と呼ばれます?」 「しりゅーがまえに、おしえてくれたの。しりゅーだけがよんでいいんだけど、あとにもおしえてあげるって」 …相手がお子様と侮って、おのろけなさいますか将軍… 維紫は天を仰ぐ。 「それで、らいきは、えーと、えーと、きゅーてん、げん…うにゅ」 阿斗は何かとても難しいことを言おうとしたのか、しどろもどろになる。維紫がなんとなく、 「九天玄女、ですか」 と言うと、阿斗はうんうん、とうなずく。 「うん。きゅーてんげんじょ。らいきは、しりゅーのきゅーてんげんじょなんだって」 九天玄女…何のことだったかしら。維紫は首を傾げた。何のことだか、のどまで出掛かっているのだが、そこから口までが遠い。 考えている間に、もう趙雲の部屋の前まで来てしまった。 「しりゅー、まだねてる」 と、阿斗が指差す先には、鍛錬場代わりの庭にある、一本生えた木の根もとの草むらで、うつらうつらしている趙雲がいた。 「…将軍はお忙しい方ですから、阿斗様と遊んで、だいぶお疲れなのかも知れませんね」 忙しい上に遊びをせがんで、挙句昼寝させるほど疲れさせたという因果関係が、閃いたように阿斗には思えたようで、 「あと、わるいこ?」 と、維紫を見上げる。維紫はやわやわとかぶりをふる。 「そうではありません。将軍は、阿斗様のお相手も、大切なお仕事だからなのです」 長坂で助けた未来の種の糧になるこれからに、趙雲は真摯に臨んでいる。他愛ない遊びでさえ、彼は真剣なのだ。 「将軍」 「しりゅー」 二人で呼びかけると、やっと、趙雲の目が開いた。 「…阿斗様」 「しりゅー、おきた」 その声の方を向いて、いささか驚いた風に言う。 「雷姫、なぜお前が阿斗様と?」 「将軍がお昼寝されてつまらないと、私のところまで」 「…お前にもお前の仕事があるのに」 「かまいません、私も、この陽気にうっかりうたた寝をしていたのを、起こしてくださって助かりました」 阿斗の格好が変だ。趙雲はそうとも言ったが、維紫はそれは後で話します、とだけ言った。 「阿斗様が訪ねられたのがお前のところでよかった」 趙雲は立ち上がり、ん、と背筋を伸ばす。と、部屋のほうから 「超将軍」 と阿斗付きの女官の声がした。それを見やって 「もう、お帰りの時間になってしまいましたね」 趙雲が言うと、阿斗は維紫にしがみつき、 「らいきといっしょにいるのー、らいきのふわふわのがいいのー」 と言う。たしかに、維紫には胸板はないが、代わりにふわふわしたものがふたつついている。しかし 「あまりわがままをなされるものではありません」 それでも趙雲は、しがみつく阿斗をひょいと軽々抱き上げていってしまう。 「あ、いけない」 阿斗の格好について、説明をしないといけない。維紫もあわてて二人を追う ことにした。 さて。 「九天玄女、ですか」 「はい、聞いたことがあるようなないような、気になったことがあったので」 諸葛亮の仕事場であったが、月英はまるで自分の部屋のようにすたすたと書架に進み、何かの書簡を取り出し、開いてはしまいを繰り返し、 「あれは黄帝の御世のことだったかと思います、怪物・蚩尤との戦いに難儀をされていた黄帝を、西王母が助けるために遣わした仙女の名が、確かそのようなものだったと…」 「はぁ」 維紫が真抜けた声を出す。月英は、ここにある文献にはない、とあきらめたのか、卓に戻ったところに、諸葛亮が帰ってくる。話をあらかた聞いていたのか 「玄女が西王母から託された護符や兵法書で、黄帝は蚩尤を退けることに成功した、確か、そんな話だったと思います」 彼はそうまとめて仕事机につく。 「そういえば、この間、酒を過ごされた勢いか、自分には九天玄女の加護があると、そんなことを言った将軍がおられましたね」 「まあ」 月英が眉を上げた。諸葛亮は彼女と、なんとなく話がわかり始めた維紫とを交互に見て、 「私の玄女は月英、あなたです。 もっとも、あなたは嫦娥としたほうが、名に合ってよいと思いますが」 そう言った。 |
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