![]()
|
「…すべてなさると仰るから、私はもうかかわらなくていいといわれたけれども、本当にどうにかなるの?」
と星彩も、薄い表情の中に、わずかに当惑と不安を見せた。 「将軍がうまくとりなして下さることを期待するだけです」 維紫もそう言うよりない。 「ねえ」 と、そばの副官を振り返り、 「将軍は今どうされているの?」 そう尋ねると、副官は 「とにかく、今は槍の扱いを熱心にされておりますよ」 「…そう」 聞く分には、自分達が受けていたものと大して変わらない。それで雅四娘を退ける方法になるのだろうか。 「…」 維紫が、つと胸の下あたりをさする。 「維紫殿、具合が?」 「なんだか胃の腑の様子がおかしくて」 「それは良くない」 星彩は言って、 「仰るとおり趙雲殿に任せて、しばらく心身平らかにいたほうがいい」 ほらほら、と、維紫を部屋から仰ぎだすように出した。 結局自宅になる小さな屋敷にまで戻り、医者は 「思いつめると胃の腑に来るのですよ」 といって、薬を処方して帰っていった。 しかし思いつめるなといっても、彼のしていることは自分にしてくれた訓練と何のかわりもなく、それでは雅四娘が増長するだけではないかと、気をもむことしかできないのである。 「…」 このまま寝ていろとは無理な話だ。維紫はまた家を出て、城に向かった。 仕事場で、簡単に掃除などしていた副官は、 「維将軍、お帰りになったんじゃなかったんですか? 星彩様が、具合が悪いからお帰ししたと仰ったので、そのままお休みとばかり」 副官の口を「しっ」と閉じさせて、 「将軍がどうされているのかどうしても気になって」 「でも、維将軍のお姿が見えるとまずいと」 副官がそう言うのを聞く間もあらばこそ、維紫は部屋においてある道具から槍を一本だけ取って、すたたっと部屋を駆け出していった。 果たして。 趙雲の仕事場から続く練習場代わりの庭で、二人は槍を合わせていた。 「まだだ、これぐらいおしきれんでどうする!」 という声がする。程なく、がきん、と音がして、雅四娘の体が地面にもんどりうつ。趙雲は息ひとつ乱さず 「立て」 と言う。 「子龍様…私もう…動けません…」 そういう雅四娘の顔の間近の地面に、直槍がざくっとささり、 「ひゃあっ」 雅四娘は飛び上がった。 「動けるなら立ち上がれ。まだ終わっていない」 地面から直槍を抜き、構えもままならない雅四娘の前にまっすぐ突き出す。そこから払いに入ろうとする隙に維紫が割り込んで、同じ直槍で受けた。 「雅四娘はもう限界です、暫し時間をくださいませ!」 雅四娘の足は、自分を支えることもできないほどに震えて、練兵着も、解けた髪も、全部が砂まみれだった。それでも、維紫が髪から砂を払い落とそうとすると、 「敵から施しは受けない! 私は子龍様に選ばれたんだから!」 と振り払い、槍を取る。しかし、練兵に使う普通の槍では、何年かかっても、趙雲が使う型を自分のものにすることはできない。 結局、足がいうことを聞かないまま、ぺたりとへたり込んだ雅四娘を塀にもたれさせ、維紫が振り返る。練兵には全く不向きな平服姿だが、そんなことを行っている場合ではない。 「雅四娘の受ける鍛錬、私が変わりにお受けします」 と、自分の直槍を構えた。 金属のぶつかり合う音とは違う。金属がふれあう、しゃ、しゃりっと言う音の間に、使う二人の息遣いまで聞こえる。 「わざと厳しい訓練を受けさせ、ご自分に愛想を尽かさせる算段でしたか?」 「そんなつもりはないはずだがな。お前も星彩も、同じ訓練についてきた」 「では、どのようにお考えを?」 「…軍を騒乱させるものには灸が必要だと思っただけだ」 かしぃん、と軽い競り合いの音。 「もうお灸は十分に思いますが」 「そうだな、この件に関しては終わりにしよう、正直、雷姫が出てきてありがたい」 「ありがとうございます。正しく導くことが今度こそできるよう、私も努力いたします」 「うむ」 趙雲がひとつうなずいて、槍を控えた。その後には砂埃も立たない。 そうしている間に、雅四娘が起き上がった。 「子龍様、もう、十分休まりました、続きを」 「ならん」 「でも子龍様」 言葉を継ごうとした雅四娘の目の前に、直槍の穂先が突きつけられる。 「趙・将・軍・だ」 「!」 「この軍にある限り、私が将でお前が兵である限り、兵は将を将軍と呼ぶ。 それが軍規というものだ。 その軍規を軽視し、みだりに姓名や字のみで呼ぶことは軍規を乱す」 それができないと言うなら、お前はこの軍にいる資格はない」 異論は? 維・将・軍。そう趙雲にいわれ、 「将軍の仰るとおりです」 と維紫はいう。 「将と兵の間には、厳然と一線画されています。あなたがしようとしたことは、それを無理に乗り越えようとしたことなのです。わかりますか」 「わ、私は、子龍様の」 「本当にそう、趙将軍を呼びたいのなら、あなたは来るところを間違えました」 維紫はそうとしかいえなかった。雅四娘はまたぺたりと腰を抜かし、追いかけてきていた維紫の副官に支えられて、戻っていった。 「将軍らしくない汚れ役を請け負おうとなさいましたね」 「汚れ役ではない。思い込みに負けない理論武装のつもりだったが」 「雅四娘はきっとこの軍には残れないでしょう」 「さもありなん。動機が不純すぎる」 趙雲はうーむ、とひとつ唸ってから 「そうだ、灸を吸える相手はまだ残っている」 と維紫を見た。 「まだいるのですか?」 そう眉を寄せると、趙雲は直槍をがつ、と地面に突き立てて、 「お前の立場なら、確かに私を字で呼ぶべきところだが、お前はなぜかそうせぬ。 なぜだ、不都合でもあるのか」 「…それが、まだすえねばならないお灸ですか」 「そうだが?」 維紫が口をぱくつかせている間に、 「雅四娘の気持ちになれば出ないことはないだろう」 趙雲は真顔で混ぜ返す。鼻先がぶつかりそうなほど顔を寄せられても、出ないものは出ない。また胃の腑が痛くなってきた。 「そ、そのお話はまた今度にしてくださいませ将軍!」 |
![]() |