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しかし、志は人それぞれとは言うけれど、多く人が集えばそう言う志で来る者がいたりするのだと、維紫はいささか面食らってもいる。 そのうち 「…雷姫!」 と声がかかって、 「はい!」 と背筋を伸ばす。趙雲が差し向かいにいて、 「箸が止まっているぞ」 と言った。城を離れた、趙雲の屋敷であった。時折主人に伴われ来て、濃密に一晩を過ごして、また伴われて帰ってゆくこの女性の正体を、屋敷の使用人たちは知って知らぬふりをする。 「昼間がこたえたか」 と尋ねられて 「は、はい」 維紫はそれだけ言った。周りには誰もいない。 「あの無作法な兵卒のことで、何かわかったな」 趙雲に図星を射抜かれて、 「はい」 と答えはしたものの、これは言うべきことなのだろうか、と悩む。 「お前の部隊の兵卒なら、私の軍団の兵卒だ。私達を見て頭のひとつも下げないのでは、事と次第によったら、上官を敬わぬカドで一言はくれたほうがいいと思ってな」 「はぁ」 「おまけに星彩が、あの槍は故意に投げられたものだと言い張って、探し出して一言ぐらいはくれてやるなんて有様で」 そう言う話になってしまっては、と、維紫は、雅四娘のことを話す羽目になった。 「私の室に納まるために軍に来たか、面白い奴だ」 趙雲は最後まで聞いてははは、と笑った。維紫は打ち明けはしたものの気分が晴れるはずもなく、箸をおいてしまう。 「もういいのか」 「すみません…少し、動揺しているようです」 「動揺も遠慮もあるものか、一兵卒の軽率な行動でふらつく立場にあるようなお前ではない」 趙雲も箸をおいた。 「もし処分をされるとして」 維紫が言った。 「彼女はどうなりますか」 「ん?」 牀の端についと腰をかけると、その中にぐい、と引き込まれる。両の頬を押さえられたまま、言葉も出ない接吻の後、 「こんなところでそんなことを話にするのは、お前の悪い癖だ」 趙雲は維紫の鼻をつついてそう言った。しかし質問をそっちのけにできないのも彼の性分で、 「…そうだな、お前からの訓戒がせいぜいだろう」 そう答えた。 「それとも、将軍権限で追い出して欲しいか」 「そんなことしたら」 「わかっている」 維紫の結い髪が探られて、紐が引き解かれると、結い癖がそのままたっぷりと波になって肩にかかる。趙雲がその結い紐を見て 「そういえば今日の練兵、女子はほとんどこの色を使っていたが、流行りかなにかか?」 という。兵卒が作りすぎたそうでわけてもらったのです、といったら、 「お前の名前のような色だ」 と言う。 「竜胆色と言うそうですよ」 維紫が返すと、趙雲は面白そうに、 「なるほど、ではこれから私の軍団はみなこの色をつけさせるか」 と言った。 その後には会話らしい会話はなく、牀の中にはそのうち、維紫のか細く高い声で一杯になってゆくのだ。 雅四娘は、維紫の訓戒に、 「今後は気をつけます」 と言いはしたが、あきらかに不満の顔で戻っていった。 こういう汚れ役も将の仕事なのはわかってはいるが、わかっていても人をしかるのはいい気分ではない。しかし、話を聞く限り、趙雲からの訓戒では逆効果だろう。顔と名前を覚えてもらえる絶好の機会を与えてしまうのだから。 と、 「失礼します」 と声がして、副官が、星彩が来たと告げた。 入ってきた星彩は 「…滑稽な話です」 と言いながら、持っていた書簡を開いて見せた。 その書簡の大意は、子龍様の室の座は誰にも渡さない、私が手にするときまで空けられるべきである。わかったなら今後子龍様と共に現れるな、と。 「…世の女性が持つ悋気と言うのは、こういうものを言うのでしょうか」 星彩に尋ねられても、維紫はどう返したものか。むしろこれは悋気を通り越したまがまがしさを感じる。 「維紫殿を狙っていた槍は、本当は私を狙っていたのね…」 星彩がそう言った。 「…もうしわけありません、指導が行き届かず」 「気にしないで。それよりこの子、面白い子だわ」 「は?」 「自分のことが見えてなくて、維紫殿のことなんか全く目に入ってない 師弟だから懇意にしていることになってるけど、本当は…」 真顔の星彩に、維紫はあわあわあわ、と手を押しやるように 「せ、星彩様、それは」 と、急には言葉にもならない。将として育てられるという立場上では最後の詰めを誤った、自分は「失敗作」でもあるのだから。そして何かの拍子に、星彩は二人の関係に気がついた。もっとも、本人達が何も言わないので、気がついてつかないふりは、もっと大勢いるだろうが。 「わかってる。隠しているのにむやみに言葉にしたら危険…」 「はぁ…」 「さて」 星彩は書簡をかしん、と軽く叩いた。 「この勘違いさんに、どうお灸をすえてやろうかしら」 そんなことを星彩とはなした、しばらく後の朝。 維紫は毎月恒例の来客で鬱陶しい目覚めを迎えていた。まだ起きるには早い時間だったが、これ以上寝ていられる気分でもなくて、ゆるゆると牀から這い出る。 ひとまず身支度だけはいつものようにし、書簡でも始末しようかと筆をとったとき、窓のほうで自分を呼ぶ声があり、何かがさっと入り込んできた。 「し、将軍」 窓から飛び込んできた趙雲は、いささかにあわてた様子で 「一体どうされました」 という維紫に、 「…よくわからん」 と言った。 「騒がしくて起きたのだ。入り口でもめているので出るにも出られず、窓から抜けてきた」 「ですが将軍、今日はたしか朝議が…」 朝議(正式の会議)には朝服という正装で参加しなくてはいけない。 「一式、予備をここにおいていたはずだ」 「…そうでしたね」 なんてことはない、前に「脱ぎ置いて」そのままだったのを、維紫が形を整え保管していただけの話だが… とにかくそれを出して、ばたばたと準備をする。 「あ、冠がありません」 「いつものようにしてくれ、服さえ何とかなれば後は何とかなる」 「はい」 着付けのために形ばかりむすんでいた髪を一度解き、今度は本格的にそろえて結う。 「どうせ冠をつけるには解かねばならん、紐はこれでいい」 趙雲が、後ろ手に、竜胆色の結い紐を出す。 「はい」 きちきちと音が出るほどに強く縛りこみ、結び目も小さく。結んだ先を整えて 「できました」 維紫が結った髪に、趙雲は注文をつけない。 「さて」 卓について、維紫が髪の道具をしまうのを見ながら、 「どう帰ったものか」 と言う。 「今日は誰も起こしに来るようなことは言いつけていなかったから、兵士がまだ彼女らを止めていると思うのだが」 しょうがない、窓から戻るか。そう言って趙雲は立ちあがる。 「朝から騒がせてすまん」 「お気になさらず…」 窓に足を掛け、彼はそう言って、外に飛び出した。 維紫は、それを見送りはしたものの、いやな予感がして、廊下から趙雲の部屋に向かう。 |
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