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維紫はぽかん、として、目の前にすっころがった男を見ている。 馬超とその副将の間で、内輪で軍団対抗戦でもやろうかと言う話になり、手合わせの相手に指名され、練兵場に出てきたが、彼女には、この手合わせで数合もこの男と槍を合わせた記憶がない。 物足りない表情で戻ると 「流石維紫殿ですな、生半の将ではもう誰も相手になりませんかな」 「いっそ、馬将軍のお相手をされたら面白かろうものを」 と、同僚の副将がそう言った。維紫の槍の扱いは、もうこの副将たちでも相手が出来ない。相手が出来るのは、師匠として自ら手ほどきした趙雲ぐらいのものだ。同僚の副将に限って、かけられる言葉にはお世辞もやっかみもかけらもない。 「いや、馬魁殿は相手が悪かったとしか言いようがない」 「しかし、維紫殿をこうと知っての指名であれば、かえって維紫殿が役不足と言うところ」 相手は伸されたままもといた場所に引き下げられ、 「貴様、これが本当の戦だったら今までの人生で何度死んでいるか思い出してみろ! こんな奴に西凉武人の魂など預けられるか!」 と馬超が暴れてかかろうとしているのを 「従兄上、大人気ないですからやめてください!」 と馬岱がとめている、といった有様だ。維紫はついかわいそうになって、 「あの、馬将軍」 と、そのほうに歩み寄った。 「あまり、馬魁殿を責めないでください。もしかしたら、準備の出来ないうちに私が向かってしまったかも知れませんから…」 「情をかけてくれるのか」 馬超は、やっと振り上げた拳をおさめて、 「しかし、この馬魁は、卒伯相手でもこの調子なのだ、今維紫を指名したので、俺のほうが止めようと思ったぐらいだ」 「はぁ…」 「とりあえず、こいつにはもう少し特訓をさせる必要がありそうだ。心配はありがたいが、ここまでにしてくれ」 後は馬超軍団の中のことだ、といわれてしまえば、維紫も口を挟めない。 「はい」 維紫は一礼して戻る。やり取りを見ていた趙雲が、 「どうだった」 と尋ねるので、維紫も 「はい、馬将軍のほうで対処される、とのことです」 と答える。 「だろうな。同じ槍といっても、私の槍と馬超殿の槍では使い方が違う。 私が鉄騎尖を使えといわれても、馬超殿のようには使えない、おそらく、馬超殿が竜胆を使うとなっても同じことだ」 その話を、副将たちがふむふむ、と聞いている。と、 「趙雲殿!」 と、練兵場の中から声があがる。 「腹の虫が収まらん、大将戦だ!」 「将軍、ご指名のようですよ」 維紫がいうと、趙雲は 「お前が強すぎるからだ」 そう返して、 「では参る!」 座っていた段からすたっと飛び出していった。 練兵の後、アレから馬魁殿はどうしたかしらん、と、馬岱を捕まえて様子を聞くと、 「後ろ頭から転がったらしいのですが、すぐ気がつきました。 …もしかして、お見舞いですか?」 「ええ、軽くでも、頭を打たせてしまったのは私でしょう?」 維紫がいうと、馬岱は少し難しい顔をして 「たぶん、城にはいないと思います」 「お屋敷ですか?」 それにも馬岱は首を振る。 「城下の、女人には関係のないお店にはいらっしゃるかもしれません」 「…そう、ですか」 すたすたと、書簡を抱えて歩いてゆく馬岱の後姿を見て、 「…そんなお店、あるの?」 維紫は首をかしげた。 「…それを、お前が知ってどうする?」 仕事机に盛大に倒れた茶器だの筆記用具だのを維紫が片付けるのを憮然と眺めつつ、趙雲が言う。維紫の質問に、趙雲はこれでもかと言う勢いで机にのめったのだ。 「城下のことは大体わかっていたと思ったのですが、そんなお店があることなど知らなくて、将軍なら、と」 机の上のものを一度卓に全部乗せ、机を拭こうと布を絞りつつ、維紫は上目遣いにそう言う。 「雷姫、私の古傷をえぐるつもりか」」 「いえ、そんなつもりはまったく」 「馬岱殿の言った店はな、『妓楼』といって、手っ取り早くいえば一時いくらで男に身を任せる女が集められている店だ」 「まあ」 維紫は、にわかに眉を曇らせた。 「あの、かわいそうな人たちがいるお店のことだったのですか…」 維紫の部下の中には、その妓楼から、混乱に乗じて兵に志願したものもある。話を聞く限り、維紫には、そこで働かされている女性を、かわいそうとしか思わなかったが、具体的な仕事の内容までは知らなかったのだ。 趙雲が、一つ一つ磨かれた小物を元のように並べながら返す。 「出来れば、お前には知らずにいて欲しい部分であったが、仕方ないことだな。 光があるところには必ず影もあるもの」 「ひとつ、お尋ねしてよいですか」 「何だ?」 「なぜそれが、将軍の古傷になるんです?」 水やら墨やらがはねた衣を替えようとしていた趙雲は、それでも質問が止まらない維紫に見えないように辟易とした顔をし、 「…今晩は屋敷に伴おうと思ったが、やめた」 と言った。 「急ぎのご用事ですか?」 「違う」 「?」 「久しぶりに、その『妓楼』に行くのも悪くないと思ったところだ。 あそこの女達には、昔の私のことなど根掘り葉掘り聞かないからな」 かっしゃん。軽い、聞いたことがある音がして、やっと趙雲が振り向くと、維紫が手に持っていたのだろう、新しい茶を入れた茶器を取り落として、 「すみません…変なことばかりおたずねしてしまって…」 うるうると目に涙をためている。槍から手を離してただの維紫に戻ってしまう、この顔には勝てない。趙雲はかけらを踏ませないように維紫をひょいと抱え上げ 「質問は悪くない。しかし、私を困らせるような質問は、あまりしないでくれないものかな」 と言った。 「確かに、私も昔は遊んだ場所だが、今は必要がない」 こぼれおちそうな涙を先に指で拭い落として、 「あの場所では金さえあればいくらでも体を買うことは出来るが、心を買うことは出来ないのだ。 そもそも、心は売買できぬ。私がお前の心を、いつ、いくらで買い上げた?」 維紫は、抱え上げられたまま、趙雲の肩にすがる。 「では、お屋敷につれていただけるのですね」 「勿論だ。お前が好きだといったな、早生だが甘い梨が届いてるぞ」 それはそれとして。 維紫の副官は何人かいるが、部屋に来るたび 「なんだかここ…急に空気悪くなった感じがしませんか?」 と異口同音に言う。維紫はずっとそこにいるが、そんな気味の悪さなど感じたこともない。 「そう? 私は別にそんな感じ、全然しないけれど」 「それは維将軍がおっとりぼんやりさんだからですよぉ」 副官はきょろきょろとあたりを見回す。「おっとりぼんやりさん」は、今、実はかなり上官に対して失礼な発言があったはずなのだが、聞き流している。 「なんか、見られている感じがするんです…」 「見られている?」 維紫は立ち上がり、開いている窓と言う窓、物入れという物入れ、果ては廊下にも顔を出し、 「誰も見てないわよ」 と言う。 「誰が見ているのかすぐわかるなら、とっくに追い払うかしてして対策を立ててます」 副官は言って、 「みんな、間者だったらどうしようって…」 「間者?」 維紫の声音が変わる。 |
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