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君の欲しい物、俺の忘れ物

単行本14巻No.5をご参照ください。

 彼女の机の上の学ラン姿の自分は、いったい何ヶ月、ここで彼女を見ていたのだろうか。
 そんな学ランもとうに卒業したのに、急に数ヶ月前に引き戻されて、
「あんにゃろ、どこであんな写真を」
憎まれ口のひとつも出てしまう。写真部の誰かがアルバイトでもしてたか? いいか、そんなことは。
 蛍光灯に、自分の手をかざす。握ったり、開いたり。彼女の額はかすかに汗ばんで、まだ熱がありそうに見えたが、アレはもしかしたら、カゼの熱じゃなかったのかもしれない。
「…真っ赤だったなぁ」
ぶり返したかと思われてないだろうか。泣きそうな顔があれ以上見ていられなくて、返事も聞かないで帰ってきたけど。
「ちきしょー、雰囲気に飲まれちまったい」
あんなセリフ、あんな場所で言うもんじゃない。俺はこれでも雰囲気作りにはうるさいんだ。つい口をついて出てしまった言葉を、ああも言えた、こうも言えたと言い直してみるが、結局、余計な言葉を全部取ってしまったら、アレだけになってしまう。
『お前が好きだよ、深い意味で。』
もしかしたら、俺が学ラン着ているうちに言われたかったかな。

じりりーん。

 電話がなって、はっと我に返った。彼女か? 昼間の返事か?
 二回目もなり終わらないうちに、受話器をとる。
「もしもしっ」
『どうしたの、そんなにあわてて。
 もしかして、忙しかった?』
電話の向こうの声が違って、それが逆になんとなく安心する。
「何だ、みぃかよ」
『ごあいさつね、菅生の大クラッシュでしょげてるかと思って電話したのに』
「クラッシュのひとつふたつでいちいちしょげてて、レーサーやってられっかよ」
『それもそうね、頭の中はもう次の筑波?』
「それほど立ち直りも早くない。
 それよりなんだよ、こんな時間に俺に電話なんかすると、ヒロが知ったら怒るぜ?」
『そんなこと、私に言っていいわけ? 今日あったはずの雑誌の取材、個人的理由でキャンセルにしたのに、私や市川さんが何度頭を下げたと思ってるのよ』
「うぇ」
あのコーナーをあのまま曲がりきれれば、手に入れられた幻の初優勝。関係雑誌が面白く書き立てそうなのは間違いない。大学講義の隙間を狙ってやっとできたオフの時間に、取材がくることはわかっていたから入れさせた予定のはずなのに、予定は未定であり決定ではない。朝入った一本の電話であっさり変更になった。

『もしもし、もしもし、あ、グン兄ちゃん? 大変なことになっちゃってさあ、お姉ちゃん、カゼ引いちゃったんだ。
 …うん、学校は、もう何日も行ってない。熱が下がらないんだって。グン兄ちゃん、お見舞いに来てよ、お姉ちゃんも、少しは治るの早くなるかなと思って。
 あ、でも、これはおねえちゃんには内緒だよ。』

 当日の朝に電話があって、秘密だよも何もない。あの土砂降りの雨の中、聞けば傘もそこそこに、スタンドに張り付いていたそうだ。
「…そこまで言われても見舞いいかないほど、薄情じゃないぜオレ。
 で、雑誌の取材はいつに変更になったの? 講義の代弁とか、教習所の時間変更とか、しなきゃいけないから…」
『ふうん、理由を言いたがらなかったのは、そういうわけね。何でいえなかったのか、そんな理由をいまさら聞くつもりはないけど』
電話の向こうのみぃの声が急に訳知りな風になる。
『それで? 歩惟ちゃんの具合はどうだった?』
「ああ、歩樹が騒ぐほどじゃなかったよ。ほとんどなおってて、熱が引けば学校にも行けるって」
『よかったじゃない。次の筑波には間に合って』
「そんないつまでカゼひくバカがいるかよ」
『グンにしては大胆なことしたわね、一人で女の子の家に乗り込んでゆくなんて。
 バイクしか目に入らなかったころと比べたら、こっちもびっくりよ』
「しょーがねぇだろ、全部歩樹が」
『歩樹ちゃんのせいにして、実は喜んでるんでしょ』
「ばぁか」
グンは口だけそういってみるが、その口も、見れば半分緩んでいる。
「それで、マジ取材どーなの?」
『そうそう、そのことだけど…』

 『予定のキャンセルで思い出したけど』
打ち合わせが終わって、グンがそろそろ電話を切ろうかと思ったとき、電話の向こうでみぃがつぶやくように行った。
『あの時も大変だったわ。私とヒロと、歩惟ちゃんで、グンがどうして学校にいないのか説明するのに』
「いつだよ」
『卒業式よ』
「ああ…卒業式」
いいながら、グンは、壁に、新しいツナギと一緒に、まだかけてある学ランを見た。
「ああ…スズカにいたからな」
『さすがの市川さんも、節目だから出ろとは言わなかったのね』
「そういえばそうだな、4耐予選の時は、中間テストは受けろって角立てたのにな」
『そうよ…ぷっ』
とみいがふきだす。よほどそのころ、何か楽しいことでもあったのだろうか。
「で、誰にそんなに説明したの? 卒業式にオレがいないの」
『決まってるじゃない、女子によ』
「女子、じょしか、なっつかしい響き」
グンは電話の前でははは、と笑う。
『そんなに笑わないでよ…耳痛いわ。
 ほんと、大変だったのよ、歩惟ちゃんなんか、最後には私たちに泣きついてきたんだから』
「歩惟が? なんで?」
『雑誌に二人で載っちゃったじゃない。それで、最初は普通に説明して納得してもらえたんだけど、ちょっと怖いコなんか、「本当はいるんでしょう、いないって証拠見せなさいよ」って』
「うへぇ、怖」
『そうよ、女子は怒らせると怖いのよ』
「…そういや、聞いてなかったな、みんなどうだった、卒業式」
『私とヒロはこの間のとおりよ。歩惟ちゃんはそういうことで式以外の間はてんてこ舞い。
 卒業アルバム、開いた? 6組、ちゃんとヒデヨシ君もいるわよ』
「へぇ、10年ぐらいたったら、開いてやろうかな」
『もう、そんなこといって』
みぃは笑ったようだったが、そこだけ少し複雑そうだった。

『みんな、ボタンもらえなくて、悔しそうだったわよ』
「ボタン?」
グンは怪訝な声を上げて、自分の学ランをあらためて見上げた。
『そうよ、ボタン。卒業式が終わって自由行動になると、女子はボタンを欲しがるの。
 秋山君、覚えてる?』
「思い出したくもねーが、そんな奴もいたな」
『制服どころか、シャツのボタンまでとられて、私たちのところの来たのよ、あなたを訪ねにね』
「なんだよ、あいつもオレの制服のボタン欲しがったのかよ、気持ちわりーな」
『そうじゃなくて』
その様子を想像したのか、みぃはやや震えた声で言った。
『あなたが学校にいるのか確かめに、よ。
 もちろん、いないって言ってやったわ、そしたら、なんていったと思う?』
「わかるっかよ」
『これでオレがもみくちゃになったのがわかったぜ、ですって』
「はっはっはー、ざまーみろ」
『あら、人事みたいに』
みぃの声が、急に改まる。
『何のためのボタンを欲しがるか知らないから、あなたはそう笑っていられるのよ。女子はそれこそ、真剣なんだから』
「なんだよ、ただのボタンだろ?
 ガクランなんてもう着やしねーから、ボタンが欲しいならあげるぜ?」
『そこがとんちんかんなのよ。ただ欲しいから欲しいじゃないの。わかる?』
「は?」
突然とんちんかんといわれれば、グンも何か言い返したくなる。
「なんだよ、なんだかわけのわかんねーこと並べて、最後にとんちんかんかよ。納得いかねーな」
と電話口に角口を立てるのに、電話の向こうのみぃは
『じゃあ教えてあげる。一番欲しいのは、制服の第二ボタンなのよ』
そう、投げやるように言った。
『ほかの場所なんて必要ないの、そこだけあればいいの。そこが、あなたのハートに一番近いから』
「…」
『だいぶ長話になったから、今日はもうきるわ。
 雑誌の取材、今度はキャンセルなしよ』

ぷつん。

ぷー、ぷーとつぶやく受話器を見て、
「なんだよ、いきなりかけてきやがって」
グンはぶつぶつとそれをおく。
「ボタン、ねぇ」

 数日後、雑誌の取材をIRCのガレージで済ませて
「だああ、まったくどこもかしこも」
グンはパイプ椅子の上で大の字になった。
「勝つつもりで突っ込んで滑って負けたじゃ納得しやがらねーんだから」
「仕方ないよ、最後、あんな雨の中でもドライと変わらないコーナリングしていたんだから、その理屈が知りたいんじゃないの」
メカの太田がそれに、のんきな相づちを打つ。
「理屈でなんか走ってたら、考えている間にエンジンがやきついちまわぁ」
高校時代からの愛用のマグで、味気もないインスタントコーヒーをすすりながらそうつぶやいていると、
「こんにちわ」
と声がする。
「ああ、歩惟ちゃん」
太田が声を上げる。グンも思わず、一緒に顔を上げてしまう。熱も下がって、すっきりした顔だ。
「あれぇ、学校どうしたよ」
先日のことは、なるべく表にも出さないで尋ねてみる。
「今日は土曜日だもの。半日で終わり」
「うへぇ、もうそんな時間か。
 でもなんで、ガレージにくるんだよ」
「みゆきさんが、私がカゼ引いてたの気がつかなくてごめんなさいって、この間IRCの名前でお見舞いをいただいたの。
 そのお返しにきたんだけど?」
「ああ、そう、みぃがねぇ」
ガラにないグンの苦笑い。この後、歩惟が先日あったことで口を滑らさないか、実に心配だ。
「グンは今日はどうしたの?」
「雑誌の取材」
といいながら、腕時計をちらり見る。教習所の座学に間に合うどうか、ぎりぎりのところだった。飛ばせば間に合うだろうが、まさか現役のレーサーがスピード違反で白バイとチェイスは笑い話にもならないだろう。
「やべ、あんまり時間ねぇな」
「どうしたの?」
三十センチほどはある身長差のせいで、歩惟はグンを見上げることしかできない。その下からの視線にちょいと目をやってから
「なんでもないよ、ヤボ用さ」
 このごろ四輪の免許に挑戦を始め、ただでさえサプライズしてやろうと思っているのに、これ以上彼女にかかずらっていると、この間のことに話がなりそうだ。グンはNSのエンジンをかけながら、その起動音に負けないように、やや声を高くして言う。
「俺は時間ないからもう行くよ、それからこれ、みぃがお前に渡しとけって」
じゃな。これ以上もなくあっさりと、何かを手に握らせて、NSは気がつけば、排気音とその匂いだけを残して、もう敷地を出てしまった。歩惟だけ、ぽつんとその場に残されている。雰囲気を察知して、メカの太田は、さっさとどこかに引っ込んでしまったようだ。
「なんだろう」
無造作に破いたレポート用紙に包んであるのは、学ランのボタンと襟章。それと写真。写真にある制服には、第二ボタンがなかった。包んである用紙には本当に走り書きといった風に
『しょうしんしょうめいのだい2ボタン。おまけつき』
とだけ書いてある。
「漢字、ほんとうにダメなんだね」
と笑う歩惟の目に、じわりと涙がにじんでいた。それをぱぱぱっとはらい、
「さぁて、みゆきさんところいってこよっと」
と、再び、ふわふわと歩いてゆくのだった。

 その話の途中で、そのボタンが荷物からうっかり飛び出て、みぃに問い詰められるだけ問い詰められることになるのを、まだ彼女は知らない。