「紫式部日記」は、基本的には、道長が自分の栄華を残させようと、式部に作成を命じた「記録」であるといわれています。
ですが、その内容の中には、記事的部分の他にも、いわゆる「消息文」と呼ばれる、手紙がうっかり混ざったような、随想的・雑記的部分があります。
その雑記的部分の中で、式部は同輩女房に対して非常に「萌え」ている観察をしていたりするのですが、中に一ヶ所ほど、毛色の変わった部分があります。
現在でも十分に有名な、同時代の女流文人について語っているひとくだりがあるのですが、式部の彼女らに対する評価には、周囲の普通の女房に対する「萌え」はなく、同じ記女流文学者としての、冷静で、ともすれば冷徹なまでの観察眼を見せています。
(講談社学術文庫『紫式部日記全訳注』下巻116ページより)
<和泉式部というひととは、文学的に面白いやり取りをしたものです。彼女には、素行に問題がある所はあるけれど、ちょっとした書き物にその才能が光ってみえます。でも、人の歌を評価できる程ではないでしょう。さらりと、自然体で詠むのが、彼女のスタイルでしょう。それぐらいの人です。
丹波の守の奥様を、中宮様や道長様の所では匡衡衛門とよんでいます。特別に身分が高いというわけではありませんが、その歌には品があり、歌人として何かと詠み散らす人ではなく、聞くかぎりには、ちょっとした折々にすてきな歌を詠むそうです。ややもすれば、上の句と下の句で趣がちがう、つながりのなってない歌を詠んで、それをもっともらしく人に見せて、「私って歌が上手だわ」なんて思っている人を、憎らしくも哀れに思います。
清少納言というのが、これがもう得意顔も甚だしい人。あれほど自分を賢く見せたがって、漢字など書き散らしていても、よくみればまだまだお勉強がたりませんってところです。こうやって、「私は人より賢く思われたいの!」と思っている人は、いつかきっと行き詰まって、いいことなんてあるはずがありませんよ。風流ぶってはいますが、それが実はTPOにあってなかったり、興味のあることには必ず首を突っ込む、そういうのは、自分で自分を軽薄な人間だと標榜しているようなもの、こんなこと、きっとろくな死に方をしませんよ>
該当部分を例によって、何かがいてあるか程度に詠みやすくしました。(直訳でも意訳でもありませんよ、注意してくださいね)
和泉式部・赤染衛門・清少納言についての評価なのですが、この、辛辣とも言える物言いが、実は式部の本性なのか、それとも、同じ女流文人としての切磋琢磨を喚起している(つまり、自ら悪役になってこの文章を書いている)のか、それはわかりませんが、「式部って実は性格悪かったん?」と、つい読んでいる本に向かって突っ込みしたくなるような部分であることは確かです。
ちょうど良いので、評価対象のことなど少し説明しつつ。
和泉式部は、百人一首でいえば「あらざらむこのよのほかのおもひでにいまひとたびのあふこともがな」の人であり、また、恋に悩んで参拝に行った貴船明神で蛍を見て「ものもへばさはのほたるもわがみよりあくがれいずるたまかとぞみる」と詠んだら、貴船明神が「おくやまにたぎりておつるたきつせのたまちるばかりものなおもひそ」と返歌したという逸話がある、女流歌人のスターの一人でした。またその恋の遍歴を、自ら「和泉式部日記」という散文にものしたひとでもあります。
紫式部は、和泉式部とは一時ともに彰子に仕えていたようですが、「和泉式部日記」の記述されている二人の皇子とのロマンスは、だいたい紫式部が出仕を始めた頃かその直前と推定され、そのうわさも紫式部は聞き及んでいたのでしょう(式部が重なってややこしくなってきた)。だから、評価の中に「けしからぬかたこそあれ」と、ちくりとやってしまったのかもしれないと思うと面白く感じます。
ここでの和泉式部に対する評価は、歌詠みとしての彼女のひょうかです。「ツメは甘い」といってはいますが、「ちょっとした折の歌には光る所がある」といっているあたり、技巧や趣向を凝らして人をうならせるというよりは、当意即妙・閃き・一瞬のインスピレーションで詠むひとだったんだろうなあと思います。
(蛇足ながら因香は、和泉の歌は「くろかみのみだれもしらずうちふせばまづかきやりしひとぞこひしき」が好きです)
「匡衡衛門」というのは、現代では「赤染衛門」という呼び方になっています。百人一首では「やすらはでねなましものをさよふけてかたぶくまでのつきをみしかな」が採用された人です。また摂関藤原家の歴史を書いた「栄花物語」の作者ではないかともいわれている人です。
衛門は、三人の中ではいちばんおだかやな評価(難といえば身分が低いことくらい)をされています。「日記」の中で「女性は気立ては良く、程々に控えめが良い、出過ぎた杭は打たれるもの」とまとめた式部には、衛門の詠歌に滲む人格に何となくシンパシーを感じているようにも見えます。
そして、オーラスかつ今回のメインイベント、清少納言についての評価ですが、これまたえらいこき下ろしようで、これこそ式部の暗黒部分、と言いたくなるような書き方をされています。
清少納言については、今更に説明することはないとおもいますが、百人一首では「よをこめてとりのそらねははかるともよにあふさかのせきはゆるさじ」の人で、「源氏物語」が、世界初の大河小説なら、「枕草子」は世界初の随筆という所でしょうか、そういうものをものしたひとです。
式部が仕えていたのは彰子ですが、納言が仕えていたのは定子です。道長が彰子を中宮にしたため、皇后と呼ばれるようになったものの、親兄弟の政局争いのとばっちりを受けて一時出家しようとするほど追いつめられ思い詰め、一条帝の並々ならぬ寵愛により一度は後宮に戻りながら、最期は出産直後に急死するというあの定子です。
「日記」が書かれた頃、すでに定子は亡く、納言は定子が遺した最初の皇女の家に引き続き仕えていたようです。式部と納言に面識があったのかはわかりませんが、定子黄金時代を描写した「枕草子』もすでに出回り、式部が目にしたことは否定できません。
「枕草子」の中での納言は、「程々に控えめがよし」の式部とは正反対の、「自慢たらしいって思われるかしら、でも私の活躍は書き残しておかなくちゃね」なんていうことをかいてしまっているほどですから、ケンのたった式部の評価も、仕方ないのかもしれません。
出来れば、この「日記」中の自分への評価に対する納言の反論、後世の研究者ではない、本人同士の「あはれ」VS「をかし」、見たくもあり、恐くもあり。
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