Grand Prologue



 雪原に散った、季節を問わぬ真っ赤なバラの花びら。
 我にかえれば、それは寝台に滴り落ちた血の雫。
 夜は明けようとしていた。
 だが俺は数刻前の時間に、捕われていた。

「陛下、姫様は無事、シルベールをお出になりました」
「ああ」
 誰かの声が、俺の頭の中でうつろに響く。
 これは、もう、俺の中で絶対なことなのだ。
 今日、停戦を奏上する。
 腰抜けと嘲られ、腰抜けは必要無いと罵られ、無名の騎士の剣にかかるだろう。
 それで終わり、それでよいのだ。

 数時間前まで、彼女はここにいた。
 俺の運命を悟って、知らず震えている肩を抱いてくれた。唇を許し、肌を許し、赦されぬ血の円環をともに作り上げた。
 その瞬間、彼女は小さく叫んだ。破瓜に歪むその表情すらもたまらず愛おしくて、俺は泣いてしまった。
「…お兄様、泣いていらっしゃるの?」
小さい声だった。
「泣かないで下さいまし、お願い。
 もう会えないのではないのでしょう?
 お願い、お兄様」
彼女は抱きすくめた俺の耳もとのあたりに、息のような声を吹き掛けた。
 俺は、情けのほとばしるままに、その小さなからだの奥深くに万感の思いを刻み込んでいた。
 
 「…」
 支度を再び整えて、彼女は再び、高雅さこの上ない王女の姿になった。
 理想の姿を求めて、はたしてその通りに、天使妖精もひれ伏すその姿に、俺は呆然とする。
 これが、彼女の本当の姿だったのかと、俺は言葉を失うよりなかった。
 限りなく清らかに、毅然と立ち、そして艶やかに。
 俺は、「器」であることを、彼女に強いていたのだろう。
 俺が望むように、その魂を包んでいたのは、過去にとらわれて、自ら目をおおって歩く俺への哀れみでしかなかったのだと…俺はいやおうもなく気づかされている。
 彼女の声が、りんと豊かに響く。
「お兄様、真実は、私が必ず伝えます」
「…ああ」
「御心配なく。私一人の力はちいさいですけれど、きっと皆様の協力をあおいで、この戦いは静まりますわ。
 真実さえ、あれば」
 そう言って、彼女は俺を見た。
 研ぎ澄まされた魂に体を支配された彼女の瞳がまぶしい。
 そしてその瞳の中に、一割程ひそんでいた別の輝きに、俺は本当は気がつきたくなかった。
 穏やかなはしばみの奥に、無限に広がるのは、夜明けの直前の、深く空をおおう青。
 守るべき次の運命を定めたことを、潤んだような輝きは如実に語っていた。
 一抹の寂しさ。
 うまれてより十数年を見守り続けて、磨きあげた珠を、結果として俺は、見も知らぬ誰かに放り投げた。
 誰も、それを受け取らぬと言うことはないだろうという、打算も若干はあったかも知れない。
 願わくば、受け取らん手が、色も輝きも傷もそれとして、ただその手の内で温めてくれるように。

「…一人で、帰ったのか」
「いえ、送ってきた騎士が残っていたようで、そのものがアグスティまで随行するものと思われます」
「誰か、分かるか」
「門番のはなしによると、アグストリアやグランベルの風体ではない、とのことで」
「…あの軍にはレンスター勢力が若干いると言う話だ。…たぶん、キュアンの指図でもあったのだろう。」
「おそらく。紋章には、ゲイボルグの加増紋を赦されておりました。若く見えましたが、いずれ名家の子弟と思われます」
「ああ、そうか」
彼女の瞳の夜明けの青は、そのことか。素性にも、若干の心当たりがあったが、それは憶測の域でしかない。
 俺は笑っていたらしい。かけられた声が戸惑っていた。
「…陛下?」
「なんでもない」

 一抹の寂しさは、なくなっていた。
 解き放たれた心が、部屋の天井あたりまで、高く舞い上がっていた。
 そこに、俺を高みに導くものがあったのかもしれない。
 俺にその姿を、見ることは出来ない。
 しかし。
 その存在こそが、彼女の瞳の奥から、俺を見つめ続けてくれた存在。
 お前を、もう離すことはない。


 夜が明けきり、謁見せよとの命が下る。
 私は魔剣を手に、その部屋を後にした。

 かの青よ、自らの運命を統べるすべを悟らぬその女神を…
 永遠に、愛せよ。