intermission「君の名前」

 夜明け前に、目をさました。
 ランプの油はもうなくなって、明かりは消えている。
 隣が、暖かい。暖炉の火がなくなっていたから、そのあたたかさが、いつもよりしみる様だった。
 …多少の、後ろめたさが、無い訳では無い。
 動こうとして、何かに、ひかれる感じがした。私の手を、白いお手が、握りしめてくださっている。
 規則正しい寝息。私はその手を、起こしてしまわないようにゆっくりと離した。

 夢のようだったシレジアでの時間が、終わろうとしている。
 私は、幸せすぎたのだ。
 王女の寝顔を、開けてゆく朝の光の中で、時間の許す限り、見つめ続けた。
 白いお手に、細い肩に、かけられているさまざまのもののおもさ。
 捨ててゆくのか。そういう声がした。

 捨ててゆくのでは無い。
 待っていてもらうのだ。
 アグストリアでの仮の騎士叙勲が、本国に戻れば正式なことになる。早くになくした父母がになっていたすべての門跡を、私が背負ってたつようになる。
 それまでの時間。長くするつもりは無い。

 「結局、何も云わなかったのね。バカな子」
ただひたすら、グランベルの目を逃れて、私達の体裁は、物見遊山の商人のようにやつされた。
 出向を待つ舟で、エスリン様がおっしゃる。
「云わなくても分かる、なんて、たかをくくっていたのではなくて?」
「わかってくださいます」
「あなたをここに残した方がいいって、キュアンはいったわ。でもどうしても、私はあなたをつれて帰りたかった」
「…」
「責めて良いのよ。一番素敵で大切な時をだめにしたのだもの」
「まさか、エスリン様を責めるなんて」
「でも、恨まないでね。それからの時間は、きっとあなたのためになる」
「え?」
それが何のことなのか、説明をもとめる間も無かった、エスリン様にお声がかかる。
「エスリン、客室に降りてくれ、リーフが泣き止まないんだ」
「ん、もう。泣かすことだけは得意なんだから」
エスリン様は、ため息を一つつかれて、走り去ってゆかれた。

 大きく揺れて、舟が港を離れてゆく。別れる人と、旅たつ人と、お互いを呼ぶ声が高くなる。
 雪はやんでいた。たれ込めていた重い霧が、晴れてゆく。
 遥かに、セイレーン城の尖塔が見えた気がした。
 その風景が、急に熱く歪んでゆく。
 湧いてくる涙を、何度も袖で拭った。擦ったあとの頬が、潮風できれるように痺れてくる。
 泣かれたお顔と、微笑まれたお顔と、そればかりが浮かんでくる。欄干に縋るようにして、私は自分の涙を隠した。自分の本分がなんたるか、それを、叱咤するように言い聞かせていた。
 しかし、その本分が、今一人の人を果てのない悲しみに落としたのでは無いか。
 そう思った時、私は初めて、騎士であることを一時、捨てることを自らに許した。

 呼んで差し上げられなかったお名前を、セイレーンの方向に叫んだ。
 波の音に消されて、自分の耳にも届かなかった。
 私の記憶がいつまでも、あの方のどこかにのこっているよう。それをただ、祈るしか無かった。